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Column| KAKUHAN「musica s/tirring」について

KAKUHANのコンサート「musica s/tirring」について、個人的なステイトメントのようなものをここに書きます。


「音楽」が時間の中で積み上げてきた技法や道具、またそれへ身体の接触、また或いはシンセなど仮想的に音を生み出すこと(直接的な行為なく音が生まれること)。そういったものの積み上がった歴史。そこにはこのコンサートのフライヤーの写真のように 、大きな構造物がそびえ立っているように自分は感じます。

このコンサートのアートワーク(写真)として、写真家「Shinichiro Shiraishi」さんの写真を使用させてもらっています。この写真はイギリスの映画監督、舞台デザイナー、作家、園芸家であるデレク・ジャーマンの庭を白石さんが撮影したものです。このアートワークの中にみえる人工物/自然物、具象/抽象、動的/静的のイメージは、KAKUHANの音楽のかたちをビジュアルとして現すものだとも思っています。KAKUHANの音楽には、デレクジャーマンの庭がそうであったように、自然/人工の間にひそむ何か、また様々な音楽の「状態」が在るように個人的には思っています。


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そういった構造物を無視することも今日の私たちにはできます。その構造物/空間の中から外に出ること、通り過ぎること、そういったことも可能であるのが現代であり、その空間に何かしらの想いや感情、また別の歴史や手法というものをプロジェクションすることも今日では可能かと思います。またそういった歴史の素通りや歴史に別の個人的な歴史を投影することもカジュアルにできるようになってきていると感じています。


これまでの音楽の積み上げ、音楽が積み上がってできた構造物/層、それを目の前に、私もまたその構造物を無視し素通りし、その構造物の隣に立ち記念撮影をしたりしてきたようなところがあります。


ここで言っていることは、より具体的には、音楽と言われる物の外側、その他の芸術ジャンルといったものと関わりを持ったり、そういった場所から音楽を眺める、また別の芸術ジャンルが持つ歴史やそちら側にある構造物の中で、音楽というものを見ながらも別の空間の中で振る舞ってきた、そういった時間のことを指しています。



そして今回のコンサート「musica s/tirring」では、改めてその音楽と言われる空間の中に入り、これまで自分たちが培ってきた道具や方法、感覚を、改めてその「音楽」と言われる空間で展開することをイメージしています。


※ただし音楽と言う空間/構造物、それが今も確固として鉤括弧に入ったものであるということを、ことさらに強調したいというわけではありません 。ある意味でそういった原理主義、つまり音楽という純粋なものがある、音楽が他の芸術表現とも独立したものだ、そういったことを強調してしまうことには危険性があることも承知しています。


ただこれまで活動して 、そういった借りの、仮設の「音楽という構造物」があるとするならば(個人的には活動していて、そういったものがあるという実感はあります)、それとは距離をとって行なってきた、過ごしてきた時間、そこで得られた感触、そういったものをたとえそれが仮説(仮設)の状態であったとしても、音楽という構造物の中に再び持ち込み、自分なりの方法でその空間をかき混ぜる、攪拌する、そういったことをここではしようと今考えています。


(これは小説家・円城塔さんの Self-Reference ENGINE の中にある描写ですが、同じ空間/部屋の中で翌朝起きてみると、別の時間軸の中に存在していた誰かがかつて所有していた家具がそこかしこに生えてくるような…そういったシチュエーションを想像しています。そういった空間の中で見えているもの見えていないもの、またその小説の中の登場人物がそうしていたように、生えてきた別の時間軸の家具を工具で切り落とし、その中にいる老婆を救出する。そしてその救出は翌朝、翌々日とまた同じように繰り返される、、。そう言った描写のイメージが個人的にはKAKUHANの活動に対してあります)



音楽を攪拌する、撹拌する音楽、撹拌することが音楽 。音楽が何かを撹拌する。


これらの言葉の中にはある意味で同語反復、同じことをただ繰り返してるだけ、そういったメッセージが含まれているように思います。


音楽とはある意味では繰り返しであり、繰り返すことで音像が現れてくる側面があります。


そういったことを受けながら、反復=また明日の朝もそこに勝手に家具(角)が生えてくるそういったことをイメージしながら、それでも別の空間の整え方、しつらえ方があるのではないか?といったことをイメージしながら、誰かにとっては聴こえない・見えていない・感じることのできない「音楽」の中の構造物をまた私たちの感覚、私たちの体でもって撹拌する。


そういったことをこのコンサートで試みたいと考えています。


 

より具体的なこととして、今回のコンサートは2部制になっており、1部は「負(OU)」、2部は「KAK(角)」と名付けられています(それぞれのコンサートコンセプトは下記の各部概要をご確認ください)。


▼コンサート概要(1部/2部)

<1部:負(OU)>

「負」という文字や、その語源である「人が貝を背負う」・「2つに割れた状態」・「反対方向に背く」。数学における「負数(マイナスの数字)」のイメージ。これらから着想した楽曲を披露する。2部の「角(KAK)」が外側に向かうエネルギーを原理とするならば、1部「負(OU)」では、内向きのエネルギーを追求する。これは楽器に潜勢する音やイメージについての再・思考/試行でもある。こうした1部では技術監修/コラボレーターとして古舘健を招く。KAKUHANの演奏によって生じる「音像」に対して、その「外部」から様々な音響的アプローチが試みられることで、楽器に本来備わる音はさらに攪拌されるだろう。


<2部:角(KAK)>

「角」という文字は象形文字であり、「中が空(から)になっている固いツノ(角)」をかたどった文字だとされる。その「角」という文字の成り立ちから着想を得たこの2部「角(KAK)」では、内的な意味やイメージを表す1部「負(OU)」とは異なり、「外側に向かう力=角=攪(拌)」をベースに演奏を行う。シンプルな空間構成で実施される1部とは異なり、京都芸術センターのフリースペースの「角=すみ≒空間」に、OLEOが舞台美術を施し、演奏によって生まれる音像をより「外側」へと攪拌する空間演出が生み出される。


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これらのコンサートについて、1部は京都芸術センターの講堂で、2部はフリースペースという2つの空間でコンサートが行われ、1部はピアノとチェロ、2部は電子機器(シンセなど)とチェロが中心に構成されます。


このコンサートでは2つの場所、2つの時間、そして二人、また「電子音楽/弦楽」、「現代音楽/クラブミュージック」、「トラディショナル/コンテンポラリー」、「フィジカル/メタフィジカル」、「作曲/即興」などなど、私たちがこれまで取り組んできた様々な異なる要素がそのユニット名の通り「攪拌」されることになるでしょう。


音と何か。何処か、その「対(つい)」を攪拌(KAKUHAN)する「音/樂」。


 


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