Essay2: On Stills and Remains|アルバムに向けて、初めて書いた文章
- 7月1日
- 読了時間: 7分
※この文章は2024年にアルバムの録音とミックスが終わり、ある程度作品の見通しが立ってきた中で書いたこの作品に関する最初のテキストです。書き始めは確か京都の出町柳にある喫茶店で一気に書き上げ、そこから推敲を重ね、今の状態があります。今週末=7/18のリリースイベント@UrBANGUILDの前に、このアルバムの始まりに何があったのかを自身が振り返る意味でもこの文章を公開しておきます。
チェロという楽器を正当な手法ではない方法で展開=チェロを弓や手、腕や指という「道具」を使用し、接触。また電気増幅や拡声、変調という手法をもとに音や音楽へと現実化していく行為。それを「演奏」と呼んできた。またその行為の傍らには、この楽器が「声」という要素をもつ。…ということがいつからかその楽器に対する思考、試行として在った。
ここに「録音」として残すのは、そのような楽器との対話を、専門の教育を受けずに15年以上続けてきたものの記録である。残すと書いたが、この作品は進む時代やテクノロジー、未来、来たるべきといった言葉からは「残された」ものの側にあると考えている。タイトルを「Stills and Remains」としたのは、このアルバムには「何かが依然として残っている」や「静的な遺産、遺骨、遺体」というようなイメージが個人的にはあると捉えており、そしてこれは「残る」「残っている」「残余」という立場をとるという個人的なメッセージでもある。

「私たち」といいかけて、それをひとまず私に限定し、私には今、どのような音楽が必要だろうか?美しさ、ハーモニー、音が詰め込まれた、或いは音圧で押し込める、躍動感、圧倒的、上手さ、流暢さ。それらは少なくとも私には今、必要がない。そのような安定した、立て続けの、或いは圧倒的なという用語が適応できる環境がいまどこに在る/いるのか(或いは音楽にそのようなことが今、担えるのだろうか?)。
※上に書いたことは自己反省を含むもので、その「疑問」に作品が応えられていない箇所があることや、この作品にも美しさのようなものが立ち込めているのも明らかである。
そんな中で今回のこの作品を作っていくにあたり、Brian EnoのObscureシリーズに影響を受けたことをここに書いておく。
Obscureシリーズのコンセプトには下記のようなことがあると私は考えている。
「演奏会や現代音楽の文脈に閉じ込められていた静かで少し奇妙な音楽を、ポップ・ミュージックと同じ“レコードを聴く生活”の中に置き直す」ということ。
そしてミニマリズム、偶然性、自作楽器、室内楽、歌曲、オペラ、環境音楽的な表現がそのラインナップに共存していたという事実。
自分のアルバムには、上にごく簡単にまとめたObscureシリーズが持つ側面に対する呼応があると感じている。
つまり「現代音楽などの文脈に閉じ込められていた静かで奇妙な音楽を、生活の中に置き直す」というところだ。
音をどのような場所に置くかということについて、単純にそれを「生活の方へ」というと昨今ではなんだかオーガニックな感じに響くかもしれないけれど、ここ5,6年くらいで聴くことになった、民族音楽や彼らの現地録音と呼ばれるものがそうであるように、私は音の発生源やそれが響く環境、また奏者などを含めて、それらがある意味では内向き、大きな集団ではない場所、個人/プライベートの中に向かう/落とすことを考えたうえでこの作品に取り組んだのだと思う。
また、それはこのObscureシリーズのあとにEnoが取り組んだ「アンビエント」という、最早現代ではあまりに耳障りの良い言葉/音となってしまった音楽ではなく、その音が溶け込む「空間」について、もう少し原初的で、現代のアンビエントが持つ機能的な状態ではない場所を探したものであると言えるかもしれません。
そして、これが録音されたのは2024年。ウクライナ情勢やイスラエルによるガザ侵攻が止むことなく続き、直接的な暴力は止むことはなかった。またこの国の頓挫する様々なモノ・コト、老朽化するインフレ、そして「やってる感」が横行する最中のこと。それらの環境の片隅で楽器を爪弾き、考えたものであるとも言える。

しかし、音楽は先にあげた否定、棄却したい事柄(美しい、圧倒的、連続性、反復、躍動感)から逃げきることは難しい。この音源にはそれらと距離を取りながらも、その「避けるようとした場所、領域」に近づく瞬間もたしかにあるであろう。ただその矛盾も受け入れ、ただそれに取り込まれることはなるべく避けるように試みた部分はある。このことは中川バンド名義でのアルバム「音楽と、軌道を外れた」にも通底する部分だ。
また、この録音の中の音はすべてチェロという楽器から生まれたものである。この日本という国で、この楽器を正当に習わずに取り組み、生まれた「間違った奏法」。この楽器のポテンシャルをある意味では「生かさない」ことの数々は、ある意味では音、音楽をアルバムタイトルのような場所に置き去りにしているかもしれない。しかしそれは敢えての試みであり、私の一つの賭け事だ。沈むような沼地、淀んだ水面(鏡面)、仄暗い場所、手付かずの領域(ジャケット写真の田んぼはまだ整地される前の状態である)、音が自ずと在る状態など、それは無論私たち人間が居ることでは成立しない場所だが(この問は「今、自然とは何か」ということにも繋がる)、それでもなんとかしてその場所にいれるように試みた記録がこの作品だと私は勝手に思っています。
それらが「空間」に放たれるとき(余談だけれども、この作品はやはりスピーカーで再生し空間で鳴らすことを想定したものであると最近は感じている)、どのような現/象が私たちの前に現れて、何をそこに残すのか?
最後に、作品や近年の創作の姿勢として影響を受けた大江健三郎の小説「治療塔」という小説を紹介しておく
「治療塔」は、ざっくり言うと、大江がSFの形式を使って「選ばれた者/残された者」「救済/支配」「新しい人類/古い人類」を問うた小説だといわれています。
『治療塔』の「行ってしまった人たち」は、未来へ進んだ人たちであり、選ばれた人たちであり、ある種の進化や救済に近づいた人たちでもある。でも同時に、彼らは何かを失っているかもしれない。身体や精神が“治療”され、変容し、別の存在へ向かってしまう。その「行ききること」には、可能性と同じくらい、暴力性や不気味さがある。
一方で「残った人たち」は、取り残された人たちであり、傷ついた環境のなかにいる人たちです。でも、そこにはまだ身体があり、生活があり、汚染された場所での時間があり、忘れられたものを抱えたまま続いていく感覚がある。つまり「残る」ことは、単なる敗北ではなく、変容や加速に回収されない場所に留まり続けることでもある。
※これは私と生成AIが治療塔について交わした会話の一部です。このようにあることをわかったかのように翻訳してくれる人工的な知能はありがたい側面もある。しかし、私個人の意見としては、こと「演奏」という行為とそこから生まれる「音」という現象については、いつまでも、どこまで行っても「わからない」部分があることが理想的だと感じている。
※上の文章だけを見ると、残ったものを賛美するようなニュアンスがあるかもしれないが、単純にそれだけを言いたいのではなく、その両者の間にある距離について私は考えたい。治療塔の話とは異なるが、残ることと進むことについて、「前衛」のことを今一度思う。この現代において、誰もいなくなった場所ゆえに、そこが最前線=前衛となることをここでは想像している。

残る側に立ちながら、ここに残ることのない「音」という現象を、「演奏」という行為によって召喚し続ける。そして、音がまた行って/消えてしまう最中、私はここに残っている。その音と私の「差異」に賭けること。音が生まれて、それが何らかの「像」をもち、それが存在、或いは「声」として繋がっていく道の中に私やあなた(聴衆)がいることを今このときにおいても考え続けること。
文書がいささか感情的になってしまっているが、そのような感情も含めて、ここにはその感情からも距離を取る音がある。余談ですが、この作品は「ながら聴き」が非常に向かない音楽で(この現代ではいささか面倒なものかもしれないけれど)、相対し向き合うことで初めて真価を発揮する作品であると感じています。
ですから、もし興味があれば、是非アルバムに耳を傾けてください。
