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Essay4: On Stills and Remains|絶/妙と、(微)妙のさなかで

6 分前
読了時間: 9分

※今回は私が作品を創りながら、そしてこの録音を編集し、何度も作品を繰り返し聴く中で感じてきた印象について語ろうと思います。


そして、リリースイベントのラスト、大阪シネヌーヴォでのイベントは今日9/25になりました。


このアルバムはチェロの音だけでできていて、私はチェロの音を、もう気づけは20年くらい続けてきた「ライブエレクトロニクス」という手法で加工し、また同時に自作の弓などの道具、そして自身がチェロとの関わりの中で出会った様々な奏法を重ね合わせて、このような時間を作り出してきました。


チェロという楽器から生まれる「振動」「信号」をマイクやピックアップによって電気信号に変換し、それをエフェクターペダルによって変調/変装するスタイルをチェロを手に取った当初から取り組んでいる私には、この所謂「特殊」とされる手法が、自分にとっては極めて自然であり、そういった場所で、演奏や作曲をしてきました。


録音作品を作るということはひたすらにその録音を聴くことでもあります。そしてずっとこの作品を聴いていて、聴いてきて感じているのは、この作品はエッセイのタイトルのように「絶/微/妙」ということと関係があると言うことです。


※荒川修作が何かの映像で「雰囲気という言葉の意味を本気で考えてたことがあるか?」とすごい剣幕で話していたのを記憶していますが、私は私なりにこの作品において、「微妙」ということについて考えています。


「妙」とは何か?そして、それが微(細)であるとはどういうことか?

女へんに少ない。その語源には珍しいことが関係しており、仏教では、「妙」は人間の知ることができない、深遠な真理や悟りを表す言葉として使わている言葉のようです。それを絶つ(絶妙)、或いはこれが微かなこと(微妙)とは?


び‐みょう【微妙】

[名・形動]

1. 趣深く、何ともいえない美しさや味わいがあること。また、そのさま。みみょう。

2. 一言では言い表せないほど細かく、複雑なさま。また、きわどくてどちらとも言い切れないさま。

3.(「微妙に」の形で)少々。やや。

4.(「ビミョー」と書くこともある)俗に、否定的な気分を婉曲にあらわす語。明言したくないときなどにも使う。

〔コトバンク デジタル大辞泉より〕


そのことを少しエッセイ的に書いたのが下記です。

「妙」のさなかで


音楽はもう既にあり過ぎるほどに在って。しかしその「あること」とは関係なく、ヒトが音をだして、それを聴いて、それを音楽だと知覚するプロセスがあって、また音はその場から消えてしまいながらも、例えばポップスやCMやサウンドロゴがそうであるように、私たちの脳裏にこびり付く。


そのような現実と、また音楽、音を「楽」として享受することさえできない雰囲気や現実(例えばパレスチナに今もあるであろうジェノサイドや暴力、差し迫った危機)。また音楽を聴く=耳をそばだてて、その向こうにあるものを知覚するではなく、ただサプリメントや壁紙のようなものとしてそれをただ効能として受け取り、私たちの気分の中に落とし込む、或いはそれを自分の気分と信じ私たちの精神に投影すること。


そういったいくつもの極端な環境があるとして、その中で、私は自分なりの距離感でその環境と向き合い(大前提として、暴力と呼ばれるものへの反対はベースとして)、このアルバムを作りました。

アルバムをなかなか客観視することはできないけど、聴いていて、また私の他の活動(KAKUHANなど)や今の前衛、カッティングエッジと言われる世界の音楽に触れるなかで改めて思うことは、この作品は冒頭にある、絶妙と微妙のあいだに置かれたものだと個人的に感じているのです。


「妙」。その語源には珍しいことが関係している。また仏教で「妙」は人間の知ることができない、深遠な真理や悟りを表す言葉として使わているようです。それを絶つ、もしくはこれが微かなこと。


これは私の完全な主観で、実際にはその音を聴いて各々が思うことがあれば嬉しいのですが、今回の作品はなるべく何事にも「行き切らないこと」「圧倒的を避けること」「その未満によって、空間が拡がるようなプロセスを取ること」という意識があります。そしてそれは他のエッセイでも書いているような、この4、5年くらいの生活や環境、また音楽へのアプローチや感覚の変化が関係しています。


圧倒的な自然、人知を超えたもの、ヒトが勝手に無垢として認識する自然。そういうものと比較するなら、ヒトは時に凡庸で、または気まぐれ(自然も気まぐれですが)、ムダ、多層的でいて無意味、そして特に現代は、膨大な情報のやり取りに対するそれらへの無気力や無力、諦念をベースとした、どこかただれたムード/環境が漂っていると感じます(これも諸説ありますが)。


それを美化することをなるべく避け(余談ですが、そのような我々の停滞や悲劇、危機などをヒトの視点だけでもって美化し、その美化やノスタルジーでもって持続するような類の音楽が主に西洋では持て囃されているようにも感じています)、ジャケットが示唆するような距離感で自然や美みたいなものと向き合うこと。またアルバム2曲目(CHU-MA)の音のように、ヒトの手垢や声のようなものが拙くそれでもその姿を持ちえる状況。またその状況とは関係なく横に延びて、ズレて行き交う様々な音たち。


音楽が確固としてできてしまうことの意義や意味への疑い。或いはその音楽を"評価"するときに使用される強度、鮮明さ、絶対的ということば。そしてそこから生じる直接性(音楽がすぐにあなたの気分に共鳴/気分を投影するなど)ということ。この作品はそれらとの距離、或いはそれらに対する批評的側面を持たせたつもりです。


またチェロという楽器から発する音やその楽器のもつイメージ、もっと言うならばチェロという楽器を演奏し生み出す音の必然性と、そこから外れる、つまり偶然性についての思考/試行に取り組んだ作品でもあります。


「"これはチェロでなくても良い"、と、"これがチェロで在っても良い" の間の往復」。


そしてそれらの疑いや試行、どこか、今、音楽を生み出すことへの躊躇い、無力感との併走。しかしその無力感を跳ね返す、或いは変奏させるために、この楽器から生み出せる多様な「声」をできる限り録音に詰め込みました。


7/18リリースイベント@UrBANGUILD/photography by Yoshikazu Inoue
7/18リリースイベント@UrBANGUILD/photography by Yoshikazu Inoue

ジャンルの中での"微妙"


最近いろいろな世界各国の音、特にエクスペリメンタルミュージックやアンビエント、現代音楽などのジャンルのリリース作品を聴いています。そして改めて自分の今回のソロアルバムを聴いていると、私の作品はどこか少しだけ時代錯誤な雰囲気があるように思います(※聴く人によって諸説あります)。


このアルバムは所謂「アンビエントミュージック」として機能しているところもありますが完全にはそれに成りきれておらず、またこれが民族音楽や現代音楽かと言われればもちろんその範疇からは外れているように思います。またリズムやハーモニーやムードなど一般的な音楽がもつ特徴を強く備えているわけでもなく、しかし、アンビエント音楽がもつ側面=つまり、意識しなくても良い、意識の外側にある音楽とも異なるように思います。実際このアルバムは何かをしながら聴くことが向いていないものだと強く思っています。これもまた現代の音楽の使用法としてはあまり適切なものではないのかもしれません(音楽の多くは最早何かのBGMとしてしか機能していないと思うことが多くなりました)。


時代錯誤といいました。

それは言い換えると、取り残されていると言えるかもしれません。「動かない存在」「残されたもの」という側面がこのアルバムの音の中にあります。ここまで書いてきたこれらの言葉の多くは否定的に響くものが多いと考えていますが、これがチェロという楽器だけで生み出されたこと、そしてジャケットが指し示す場所、またこのアルバムを通して聴いたときに聴き手から生まれるイメージなど、それらの重なりから生まれるものは、再三言っている単なる「時代錯誤」とは異なるものへと私たちを向かわせるものだと考えています(少なくとも私はそこに賭けています)。


photography by Yoshikazu Inoue
photography by Yoshikazu Inoue

"他者"から少し離れて


チェロという楽器を演奏するようになってから、私は特に音をいうメディアを「他者」として捉えるようになりました。その捉え方の根源には私が音楽に関して完全に独学で、どこか本流の「音楽」を理解できていないという自負があったからかもしれません。そんな私がチェロを演奏し、それでもそこから生まれる音。その音は私が出した音でありながら、それはいつもどこか「知らない存在」でした。


音を生み出すということはどこか他者と出会うという側面があるということは今も感じています。ただ今回の作品はその「現れる音」について、なるべく可能なかぎり脚色をつけずにし、その「音と聴き手の出会いの場」や出会ったあとで「私たちの内部に起こること」を重要視しているように感じています。


今、「他者」と簡単に言いました。かつて「、バンド」での作品(音楽と、軌道を外れた)を作っていたころの私は、この「他者」を良い意味でも悪い意味でも簡単に考えすぎていました。「音/音楽」を他者と認識し、その自分が演奏し"出来上がってしまったもの"に対して、それに何らかのかたちで相対する、批評する、茶々を入れるなどをすることで、私はそれを私とは別の対象として見ていた部分があります。しかしそれはそんなに簡単なことではありません。


レコーディング時の様子
レコーディング時の様子

これは既にリリースツアーでのMCでも話していることですが、この作品がこれまでの自分の活動と異なる一番大きな部分は、まさにその音/音楽との距離感、対象/対峙の捉え方だと感じています。自分で演奏した音が自分との間でそんな簡単に「対象化」することは無い。そんなことを今更気付き、この5、6年くらいで創りだした自作の弓から生まれる音と向き合うことで、音と音楽との距離感を少し改めました。またその変化の最中で改めて感じたことは、この楽器がポテンシャルとしてもつ「声を生み出す装置である」という側面でした。何故今でもこんなことを思っているのかわからない部分もありますが、私は聴く音の中に何らかの「声」のような聴きたいと思っています。音/音楽との距離感が変わってもその気持ちには変化はありません。


翻って、私が演奏という行為によってそれを生み出すとき、その「声」が何を言っているのかはいつもほとんどわかりません。しかしその「声」と共にいることの可能性について考えること。アルバムの最初にエッセイにも書いた下記の言葉もまた在ります。


けれど、声には長い歴史があります。だから、たとえそれが個人的なものだとしても、それは個人の枠を超えて外へと導いていきます。私はチェロを単なる楽器としてではなく、存在を伝える媒体として捉えています。音楽であると同時に、それは声でもあるということ。「音楽」と呼ばれる時間と空間の上にできあがる「建物」であると同時に、それは「声」という意思や態度、メッセージでも在る。

この「同時」を、この時代に、風のようなものとして、この場所に生み落とすというようなイメージ。


「微妙」についての話から随分と逸れてしまいましたが、このような思考のさなかにこの作品は在ります。



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parabasis1 - Yuki Nakagawa
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