(無)関係、翻訳、擬態。そして外部へ(「アウト、セーフ、フレーム」日記2)
今日はこの作品「アウト、セーフ、フレーム」を立ち上げていく中で考えていることをいくつか列挙します。
「音・音楽の周りで、関係/無関係を翻訳し、その作業が何かに成り、ある時間と空間を占め、そしてどこかに行ってしまう(或いは還ってくる)」ということ。この作品のタイトルや実際の作品にはこのことがどこか関係しています。そういったことを下記では自分の演奏や実感を通じて説明しています。
(無)関係
何が関係しているか、していないかの定義は難しい(無関係といっている自体、関係であるなどとも言えるし、意識に登るそれらは既に関係であろうし、無意識的にでも関係はあるはずだ)。それは「これが音楽か否か」についての判断とも同じくではないか。或いは倫理判断(アウト/セーフ)もこれに抵触してくるところがあるように思う。関係ということについて。ただ自分の感覚から始めるとして、今回の公演では一般的にはつながらない、それが大文字の音楽の形成に必要な、必須なものでないものの使用がいくつかあったりする(意味のない言葉や説明、関係のない他者、他種の声、特殊奏法というのもその一例)。
そのような関係の薄いものの使用、集合、召喚、出会いについて考える(ただこれは異常者や異端なもののパレードではないことは強調したい)。そしてそれが時間、場所を共有することについて考える。意味などない、関係などない、しかし・・と最後に止揚(あるものを否定しつつも全面的に捨て去るのではなく、積極的な要素を保存しより高い段階で生かすこと)されるものについての考えの「かたち」。それが公演のひとつのテーマでもある。つながらないものを繋がりとするということ(いや勝手に繋がってしまうことへの賭け)。そしてこれは翻訳ということともかかわってくる。
翻訳
他種の声を楽器で模倣するとき、それには必ず翻訳が関係してくる。自分の耳で聴いた他者を自分の身体の動きで、楽器の機構の中へ「翻訳」していくこと。あの囀り、あの歌、あの叫び、あの独り言をチェロという機構と自分の運動で再び立ち上げていくこと。その時間。音楽そのものが感情や標題(例えば田園?)の翻訳であるので、これはさして珍しいことでもなく当然のことであるが、「現在」を翻訳するための方法として、今回のコンサートにはいくつもの試みがある、いや無いといけないと考えている。そしてその「現在」の翻訳ということが現代音楽の試みのひとつだと私は考える(私が現代音楽のテリトリーに属しているか私は知らない/また同時に現代の翻訳に躍起になるということには注意が必要である)。翻訳、他のかたちに変える、変わること。
そしてまたこれは擬態とも関係しているように思う。
擬態
自然界における詐欺、危険から身を守るためのやり過ごす手段、脅威からの影響、そしてその学習の結果、何かをおびき出すため方策・・・。擬態のことを今回考えている。小さな魚が集合して大きな魚になる=集まりおおきな「かたち」を描くこと、昆虫が小枝と化すこと、カブトムシの蛹(さなぎ)が出す偽の振動…。生存本能とほんの少しの遊び、暗号。擬態はずっと生涯を通じてされるものではなく(ずっと擬態が持続されるのであればそれはもう擬態ではなく本質ではないか)、ある目的のために一時的に発生する現象である。やりすごす時間、しかし生存のための時間、しかし誰にもさして感じられない現象。
なんだか理屈っぽくて、難しいことばかり言っている気がするが、こういった、一見音楽の形成にあまり寄与しなさそうな事柄から、音楽をそしてコンサートを考えることをしています。そして同時にコンサートの「外部」ということも。何かに対して、「これは内、これは外」と線を引くことは危険な側面があることは承知の上で、それでも今、外側とみなされることについて、ひとまず自分という「内部」から、演奏という「外部」に向かって考えてみる。
外部へ
※この日記はGoogle音声認識ツールを使用し、発話し、そこの記録を一部手をいれて文章化しました。
「今日は、 音声認識を使って話してみます」
「皆さんにも。何か集中して。何かをするということがあると思います。例えば料理だったり。何かしらの仕事、作業 だったり。その時に何かに入り込むということはあると思います」
「自分にとって演奏と言う行為は、それに近いようなもので。集中というか、もう少し潜っていくようなものになっています。 潜水みたいなイメージがあります。潜水、集中、潜る。これは、ある意味では内部の話のように思われると思うんですが。ここで身体のことと、行為について少し考えたいと思います」
「今年のはじめに少し体調を悪くして。 神経的なものをちょっと損なったことがあって、その時に思ったのは、呼吸を止めて(潜めて)演奏をしている時の方が 、何もしていないとき(次の演奏の機会を待っているとき)よりも、心身のバランスというのが、 取れたと言う体験をしました。自律ということは、受動的な状態よりも能動的な状態の方がキープしやすいということを体験したのです。また能動的でない、主体にとっては”何もない”時間、そこで時間をやり過ごすというのは、 なかなか大変でした。受動的な状態というのは体のチューニングというものを 意識せざるを得ない。そしてその内側への"意識"というものは、時に殺到し私を混乱させるものだと言うことを思いました」
「何が言いたいかと言うと、行為というものは潜って行くと言いましたが、それが実現するには、その行為の性質=潜っていくこととは矛盾する、 外部へ向かう何かがある。ように思います。何もしていない一見受動的な状態=内部、また演奏という能動的=外的な表現について。演奏。」
「潜っていきながらも、それが外部に放たれていくことについて。表現ということなので至極当たり前のことを言っているのですが、そのことについて考えてます」
「演奏のどの部分が外部へ向かっているのか?」
「自分の話をします。特に自分の演奏では、 楽器に対して。 楽器のどの部分に手を置くか。であったり、 腕の 位置が楽器のどの部分にあるかということを。 常に外的に意識していて、また、視線や眼差しも、今、 自分の身体の一部がどのような 楽器の場所にいるかということを気にしています」
「プロのミュージシャン、訓練された弦楽器奏者のように 指の感覚が そのネック、指板、首 の 場所を内的に覚えているわけではない。ということです。 何が言いたいか。これは、自分の奏法というのが、 かなり。 抽象的で。 ある種、的を得ていない。 ものであると。いうところがあります。 わたしの演奏の多くは打楽器的な奏法がその一つですが、かならずしもある音高を正確に出すために使われる楽器の指板=ネック=首に置かれていないことが多いのです。また置かれてはいるものの、はっきりと押さえてはいなかったり、少し触れているだけということが多々あります。そして音高の正確性という観点で言えば、その抽象的な手や腕の置き方は、いつも音高の実現に対して失敗がはらんでいます」
発話するための行為、その時の身体の位置・状態、眼差し(或いは見ていないこと)。そしてそこから生まれた音の想像とのズレ(失敗と、また失敗さえも成功)。そしてまた指や腕をみて、またその不安定な位置から音を生みだすこと。まなざし↛行為↛聴くことの運動。
「話が飛びましたが、演奏に際して外部がある。いう感覚でした。上に記したことは、身体と楽器の関わりかた、また音楽を生み出すということについての外部について、潜ることと外部に解き放つことのバランスがあるということを言っています」
「また、 自分にとっては、 スピーカーと言う存在も。その 演奏と言う行為また、 内部に潜って行くような行為 の外側にあるものとしています。もちろん音は、その音源から生まれるものですが。それを拡声する。ここで拡声というのは、音を音源から 別の場所に持っていく。そういった側面が強いと思ってください」
「音源の音を増幅することが拡声ですが、別の場所に音を持っていくとも 言えるのではないかと思っています。そのような、 スピーカー と言う外部。また奏法/行為の中に内在する、外部あるいは眼差し、そして聴くという行為。こういったことが、 自分の中にあって、そのような位置から、音楽 というものを眺めている。 そしてそこには距離がある。」
と感じながら、 演奏行為をしている。そういった意識があります。
コンサートの説明には全然なっていないが、関係と無関係、そして翻訳から擬態へという道の中に、音や音楽という現象が出会うということを想像している。今回「距離の音楽」と言っているのは、その道の中の、「何かと何かの距離についての話」でもあるような気がしている。私たちはこれからも何かと完全に一致するわけではなく、個人個人の道を歩く。時間をやり過ごす、使う、何かに再びなる。
「再び何かになる」ということは今回の公演のひとつのテーマでもある。これについては詳細には説明したくなく、是非コンサートを観てほしい。今回はこれらの妄想、想像を一つの時間ではなく複数の「曲」という概念を交えて、実現しようと思っている。
ひとつの決定や時間というものは苦手なのだ。私は貪欲で過敏であり、中華料理店の回転テーブルに座るヒトのようである。選べないし、選ばない、最後まで。それが私という種(しゅ)で、その種(たね)を各時間にバラマキ、その種が咲くのか、咲かないのかを眺めてみることを、自分もその(農/脳/能)作業に関わりながらやってみる。
中川裕貴「アウト、セーフ、フレーム」 ロームシアター京都サウスホール 2020.07.31-08.02
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