KAC Performing Arts Program 2018 / Music #1 中川裕貴『ここでひくことについて』
プログラムA:PLAY through ICONO/MUSICO/CLASH
詳細
構成・演出:中川裕貴
作曲・演奏・出演:中川裕貴
舞台美術:カミイケタクヤ
舞台監督:十河陽平(RYU)
音響:粕谷茂一(slim chance audio)
照明:魚森理恵
日時
2019年2月22日 (金) - 2019年2月24日 (日)
プログラムA:PLAY through ICONO/MUSICO/CLASH
「演奏/像/音楽」、またはそれらの「衝突」について。美術や光を交えた最新の「ソロパフォーマンス」。
私という製作物による、「演奏」という製作物、そしてそこから現れる「音楽」という製作物。また傍らに在るモノ(楽器や美術)やそれらを在ること(無いこと)にする光。これら「事物」の衝突/接続/切断が、ある時間と空間の中で行われる。それは仮固定でしかないが、創りながら/壊しながら、行為が在ること。製作物と行為、そしてそれらすべてを「像」として考え、相互に衝突させる実験をここで行う。
会場:京都芸術センターフリースペース
KAC Performing Arts Program 2018 / Music #1 中川裕貴『ここでひくことについて』について、公演後の自身の内観をまとめていく。まずは自分のソロ公演であった「PLAY through ICONO/MUSICO/CLASH」から。
1.はじめに
行為についての「思考/試行」をやった。そしてそれが音や音楽と関係があった。
個人/他者、主語の単数/複数、そしてその「/(斜線)」が分かつ”あいだ”について考えた。
一般的な音楽や演奏というものと自分の距離について考えた。
その結果は…
・何か壮大な結果がみえた/きこえたともいえないし、そもそもそれを求めていなかったはず。
・エポックメイキング、アバンギャルドから想起されるものとは多少角度の違うものをやったつもりもある(そのため結果が凡庸なものになった可能性はある/また或いは旧来のアバンギャルドの感じが色濃くあった可能性もある)。
・そして今一度、「中庸」ということについて考える。壊すのではなく、衝突、或いは何かと何かを擦り合わせるということについて。その「空間」「時間」をこれからも自分で守るということ。
幸い「行為」はまだ続くと感じることができた。どの方向へか。ひとつ言えるのは、より「抽象」の方へということ。音楽は、演奏は、もっともっと「何かを伝えることをせずに何かを届けることができる」と思った。またその主体が「私」でありたいとも思った。
余談:夏目漱石「草枕」に出てくる、主人公と下手な床屋(自分では腕は良いと思っている)の会話とその目の前にある歪んだ鏡の描写について考えている。髭や髪を無茶苦茶にいじられる中、歪んだ鏡に映る自分の歪み、角度によって醜く、怪物のようにみえること、またその現実の滑稽さについて。
また同時にマジックをしながら、それと併行して種明かしを続けること。ここへの異常なまでの自分のフェティッシュを今後も継続すること。それぞれの勝手気ままな内観は下記。内観ということなので、ほぼ完全な独り言です。見るべきは写真の方かもしれません。
2.いくつかの内観:
Aプログラムでは主に私のソロ演奏(PAは茂一さん)。加えてカミイケタクヤさんの美術、そして魚森さんの光という編成でお送りしました。詳しくは写真をみてください。ここでは演奏者の内観をいくつかの表題に分けて伝える。
▼「音楽」ではないという問題
終演したあと手元に残った正直な感覚。問いとして挙げた「演奏という行為はほんとうに音楽のためだけにあるのか」に対するものとして、結果自分がやっているのは「音楽とは別の側面がある」というところを感じたのだからそれは当然の帰結だとも思う。しかし改めて「音楽ではない」ということのどこに”残念”があるのか?
自分の演奏は行為や時間や空間に対する、単なるリアクションにしかなっていない気がする(リアクションは音楽かという問題)。演奏についての思考で一つの例を載せる。
音楽を演奏しているヒトにたまに見受けられるのが、「音楽をしているのか/させられているのかがわからない」シチュエーションである。音楽にある強固な構造(偶数の繰り返し、A,Bメロ、サビ、ギターソロ、モード、テーマなどなど)にしたがい演奏をしているとき、その演奏の主体性のようなことを考えたりします。
つまりこれは音楽の長きに亘って歴史や慣習にしたがって行為させられているだけではないのか?という問い。しかしまたこれがまさに大文字の音楽であるという事実(勿論それだけではないし、そのように音楽を捉えることは間違いだとも思うが)。しかし方や神楽や能などがそうであるように、主体性が自分にある或いは観客にない表現の存在があることも知ってきているので、「音楽をさせられている」ということが必ずしも悪いことだとは思わなくなってきています。あくまでも私たちは「している/させられている」のあいだを彷徨うことで音楽に触れているようにも思います。
▼電気、機械とその時間の問題について
音を電気的に増幅、また複製、反復(ループ)して音を紡いていくということと、それを切断したら、また別の行為を足していくというのが自分の単体での演奏の特徴だということはなんとなく理解しています。
ただ最近思うのではその複製、増幅の時間、もっというなら[機械を操作している時間の問題]というものを考えています。以前とある方から「演奏が遅い」的な指摘を間接的に受けた際の理由のひとつはまさにここに起因するのではないかと僕は思っています。次回に自分の音を複製させている時間の長さや不要さ、不用心さ。これはうすうす感じてきていますが、ここを乗り越えないといけないとも思っています。対策としては主に下記かなと。
・複製の方法を多様にする。複製の時間をより複雑にする。
・複製=電気的な行為を辞める或いは減らす(これは別項でも取り上げます)
今まさに読んでいる本に岡崎乾二郎さんの「抽象の力」というものがありますが、その中で取り上げられているとある版画作家のことに興味があります。版画という芸術、及びその行為。そこに案外自分のこの方法(行為を増幅/複製)することについての別の仕方が潜んでいるのではないかと勝手に考えているところです。
▼美術とその音の関わり
特にソロに関して、今回カミイケさんの一緒にできたことはとても良かったです。モノと共に演奏があること(そこに光も交えて)がソロの大きなテーマでした(それが何かしらの衝突に繋がればベストという感じでした)。それは一定の成功があったと考えています。その上でいくつかの課題を簡素にですが記載。
・もっと「衝突」について詳細に考える必要あり。衝突とは何かと何かがぶつかること、それはまた同時に摩擦であること。
・モノの音ということについて、演奏が意識的になる必要がある(例えばコンプレッサーの音の使い方など)。
・音とモノ、行為の関係性のその先(コンプレッサーの使い方など)
▼特殊な身体/演奏への意図と不意図
特殊奏法について、これは足立智美さんのラッヘンマンについてのテキストで「特殊奏法とは目と耳の往復を促す作用を持ちうる」という要旨の論考があったと思っています(中川の勝手な理解です)。そしてそれをベースに私は幾分特殊な演奏をしてきたところがあります。音は聴くものである、但し「あれは何だ?とみること」そして「それを音として聴くこと」、この道筋の中に自分のしたいことがあるように思ってきました。
しかしその特殊な演奏というものが自分を「見せるもの」だという意識が強くなってきました(これは演劇の音楽/生演奏をしているところにも影響があるのかもしれません)。
特殊奏法の目的化、これには注意しなければならないように思っています。また演奏の特殊さなど、現代にある様々な行為や現象の特殊さに比べれた取るに足らないことだというツッコミもしておかないといけません(自分へ)。音を出すという行為がまず先にあること、特殊はその後に勝手について来ることを今一度考えておきたいです。その特殊さを目的化することは「音楽」との距離に関連しているように思うので。
▼アコースティックということについて
電気、拡声、複製の問題を話しました。その流れから、この「モノ」=チェロの別のポテンシャルをそろそろ考えるときが来たようにも思っています。ひとつに要はこの楽器及び自分の演奏スタイルについて、「停電」するということを思考/試行を促す必要があるようにも思います。
既に何人かの方から指摘を受けていたりするところ、この辺りは楽器について、これまでとは別の視点をみていく必要が出てきたように思います(本当にようやくここまでこれたというところもあります)。
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