自身が主だった「コンサート」を企画するのは4年ぶりのことで、そのあいだにいろんなことを経験したり、考えたりしました。そしてそれをコンサートという「作品」にするのは久しぶりで、どのようにそれを作るのかを思い出すところから始めています。
まあしかし、それでも私は大体いつでも地味変(地味で変)な場所でやってきた自負があって、今回も「ここ」まで引き連れてきたコトやモノでやっていこうと考えています。そしてその上で今回大切にしているのは、「弓」と「耳」と、それが結合した「弭(ゆはず)」という文字から、それを「コンサート」いう場所に照らすということになります。
ここでは今回のコンサートで何を照らす/持ってこようとしているのかを少しずつ書いていきます。
2020年のロームシアター京都でのコンサート「アウト、セーフ、フレーム」でのリハーサルの模様
▼タイトルについて:
弓に耳が連なり、「ゆはず」という。これは造語ではなくれっきとして「在った」文字であり、それをみて、私は、私とその文字に何かしらの関係があるように思いました(それは別の日誌でも書きますが、ここ数年、私は自作の「弓」での演奏を自分のパフォーマンスの中心に添えていることも関係しています)。
いつものことですが、私はいつも何かしらのかたちで韻(音に員で韻というのも面白い)が踏める物事にその都度影響を受けて、それと共に何かしらの作品、かたちを作ろうとしてきました(そしてそのことは今回オファーした出演者やスタッフの皆さんにも当てはまります)。
弭(ゆはず)。それは弓において、弦(つる)をかける場所のことをいいます。「かける」という言葉には、弓に弦をかける以外にも、賭けるや欠けるという感じをあてがうことができる。それもまた言葉遊びの類ではありますが、今回はそこから始めています。またもちろん、そこには今回招いている1729=DJによる音楽を「かける」ということも関係しています。
今は、もう、すべての物事や対象が自身と「関係」しているように、或いは自身と拒絶しているように感じることもありますが、そのことを一旦は忘れて、例えば手に取った弓や楽器、交わした言葉、目の前で展開された行為、スピーカーから流れる誰かの音楽、そしてそのときに流れる「時間」の「感触」をもとに、ここにいる「私」を起点にして、それらの要素の「織物(タペストリー)」をコンサートという場所に織/折込めるようにリハーサルを進めています。
「ゆはず」という場所は、弦(つる)を「かける」場所を言いますが、掛ける/賭ける/欠けるということは、
・掛ける:接触(橋を架けるためには道がいります)
・賭ける:不確定なものへの投機、まだ見ぬ結果への投げかけ
・欠ける:そこに在ったものが無くなる(不在への進行)
これらの意味を持っているように私は考えています。
弭→ゆはず→かける(場所)と展開し、枝分かれ/横滑りしたこの言葉の先に、私が思う「コンサート(Concert)」の風景が広がっているように思っています。
なお今回のコンサートの概要や私の現在までの遍歴については、こちらのインタビューでもお話しています。
…ということでリハーサルは続いております。そして何よりチケット発売中です。よろしくお願いいたします。
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