中川さんは私の転職活動の相談に乗ってくれたこともあれば、実家で採れた野菜をくれたりと、私にとっては近所のお兄さんのような距離感の人でしょうか。
そんな中川さんのコンサートに何度となく出演させて頂いている私ですが、その度に私はコンサートとの距離を感じており、演奏しない者(俳優?出演者?何者?)として、演奏の周りをうろついています。演奏とは直接関わらず、ふらふらと。
いつも距離は感じつつも、稽古が進むにつれ、私の声や、行為、そこから出る雑音、無責任に漏れる音が、いつの間にかコンサートと交わっていくことをじわじわと楽しんでいます。
スピーカーやマイクに繋がれ、床に這わせたケーブル。それに引きづられて絡まれていく状況に身を任せながら、ロームシアターでの本番を心待ちにしています。
穐月萌(あきづき・もえ)
とあるイベントのある曲の冒頭、中川さんから「出村さん、もう一歩前に出てください、もう一歩、もう一歩、、そこで後ろを向いてください、はい、そこにいてください」そう言われ、演奏中、私はただそこにいる、ということがありました。
演奏者の方を向き観客を背にして、私はど真ん中に立っているわけですが、なぜか納得してそこにいることができた。わたしはただここにいて、この状況をこの状況のままに受け、ときに関係ないことを考えたりする。
随分前のことですが、私はこのときのこの感覚のことをずっと覚えていて、ここに立ち戻るときがあります。
奏でられている音、録音された音、行為、物、物がぶつかった音、ふいに出てしまった音、発している声、意味を含む言葉、意味の分からない言葉、それぞれが同じように存在する場所で、派生していく像をみる。
出村弘美(でむら・ひろみ)
上の文章は今回の公演に出演してくれる出村弘美さん、穐月萌さんの公演に向けてのコメントです。
今回は、これまで私の作品に数多く出演してくれているこのお二人について少し書いてみようと思います。
出村さんはもはや誰も見ていないだろう、2013年の12月13日金曜日に京都のエンゲルスガールでやった「中川裕貴、バンドの13日の金曜日」というカルトイベント(映画13日の金曜日をサンプリングして、それと共にライブをするイベントでした)から、萌さんは2017年の「対蹠地」@京都芸術センターから、それぞれ僕の作品に関わってくれています。
これまでに二人にやってもらったことを箇条書きにしてみます。
音楽の説明をする
ステージを徘徊する
日本語を逆から読んでもらう
踏み台昇降運動
聴診器で心臓の音を拡声
何もしないのにマイクの前にたつ
弾いたことのないギターやベースを弾く
ラップをする
レコードプレーヤーの操作(喫茶店のレコード係のように)
客の振りしてステージにいる(ステージ上で飲食)
自動掃除機(ルンバ)の世話
見よう見まねでコンサートの合間のセッティングをする
船の汽笛の真似をする
壊れたチェロを引きずる
某映画評論家のものまね
スピーカーを台車に乗せて運ぶ
ゴミ袋で作ったバグパイプを吹く
漏れがあるかもしれないがこういうことをしてもらいました。
文字面にすると「だから何なのか?」というところかもしれませんが、私が演奏する傍らでこのようなことをして、存在して貰ってきました。まずそのことが価値や意味という言葉をひとまず脇に置いても、稀有だと個人的に感じています。このようなことを曲がりなりにも継続して共にやってきました。
まず二人はステージにいるのに、なんというか、「そうで無いような」状態でそこにいることが多いと感じています。それは私が指示してるところもありますが、それだけではなく、最初から二人に既に備わっている能力だなとここ最近思うことが多いのです。表現をするにあたって、表出する、してくるものが少ないこと。しかしこれが意外と私の作りたいと思っている音楽に関わる場所には重要だと思っています。
このコンサートの企画書の文章を引きます。
コンサート=Concertという単語の中の「Con-」という接頭語には、「一緒に、ともに」という意味があります。私はこれまでのコンサート企画において、音が生まれる場所の中で「どのような存在と時間を"ともに"するか?」を一貫して問うてきました。そしてその問いはまた、「コンサート」という言葉がもつ概念や時間を拡張することにも繋がっています。
(それは私が独学で演奏をしてきたことも関係していますが)ずっと一般的な「音楽」との距離を測るように活動してきた私は、何かを外側に広げようとしたとき、そこには何か「別の対象」がいるように思っています(何かをそのテリトリーの外側にもたらすとき、それはまた別の何かに"成らない"といけないのではないかと考えているのです)。しかしそれは何か仰々しい他者ではなく、音がそもそもそうであるように、何か重い意味や意義を持たない存在であってほしいと考えている部分があります。
そして今回のお二人のコメントを見て、それ(表出や表現)は本当に「無い」のではなく、それは彼女たちの奥に潜んでいることが、私は勝手にわかりました(それが分かっただけでもこの公演がやれてよかったです)。「潜勢力」というのは私が敬愛する哲学者アガンベンの使用する言葉ですが、これらのことは今回の公演「弭(ゆはず)」が大切にしていることの一つです。石板に何かの文字を刻む前に考え込む時間、音を出す手前の思考などなど、何かが「現実化」する手前の状態が、この「潜勢力」という言葉に当てはまると私は考えています。
かつて二人にやってもらったRAPの歌詞にこうあります。
被害の被害妄想を避けるためのレジャーや動物みたいなのの愛護、相棒、存亡。国が終わる代わりに、ほらあそこから芽が。「新しい私、始まる」、化粧品のコピー。楽器を持ったコピーバンドの消滅。怒るやつの中にもある無気力や諦め。怒らないやつの中にある気力や希望。アジアンとカンフー、あなたが五桂池に落としたのはどっちですか。みなもからQ浮上、私が不肖、責任上。怒らないのが一番悪いから、海に帰れ。リアス式海岸って次はいつ地形変わるんですかね?
今回はRAPは多分ありませんが、言葉も想いもコンセプトと意味も、それが「見えている」よりかは遥かに「埋められていて」それをみなさんに一緒に探すのが上演の醍醐味だと思っています。今回もたくさん「埋めてます」。
そして、今回のこのコンサートが、これまでお二人とやってきた、おそらく半分は意味のなかった試みのひとつの結節点になるように感じています。意味という「中身」を得るよりも、そこに生じた、生じてしまった様々な物事と共にあるということ。そして、音や聴くという行為はそのことと関係があると私は考えています。
ここまで共にきてくれたお二人に感謝の気持ちを持って、この公演に臨みたいと思います。
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