私が「コンサート」というイベントを開くとき、それは2020年の「アウト、セーフ、フレーム」でもそうでしたが、私はこのことば(コンサート)を「一般的な音楽を演奏する場所や催し」という意味だけで捉えていないところがあります。現在における「音楽」やその再生や完成という意味において、またそれに関わる「曲」という概念について、一般的な認識と異なる部分があるように感じています。
「コンサート」「音楽」「曲」などのそれらの用語やそこから派生する事柄について、私はそれらの一般的な意味や意義と、どのような側面で袂を分かっているのか?その「分別」についてのメモのここには記しておきます。
※なぜここで「分別」という言葉にこだわるかというと、ご存知の方もいるかもしれませんが、私の大学院の研究テーマは、「複数の音や声/存在というものを、私たちがどのようにして、その音情報からそれを”複数/単独”のものとして分別/認識しているのか?」ということでした。この「何かと何かが異なるもの(或いは同じもの)」であると認識するプロセスに私は興味があるのです。
▼分別すること、そして、統合してしまうこと。
私はこのコンサートタイトル=弓耳(ゆはず)を文字通り、弓と耳に分解しながら、その言葉の元々の意味(弓において弦をかける場所)との関係を意識しつつ、そこから派生する様々な事柄をもとに今回の作品を考えています(これについてはクリエーション日誌2で説明しています)。このタイトルにある文字を2つの要素に分別しながら、1つを2つへ、或いはそれをもっとバラバラなものとして展開していくスタイルを今回も取っています。しかしどこまでもそれを「分けて」いくことは私たちにはできない、というか、まとまりと欠いていくことは統合失調症のようなある意味では病(やまい)とも関係を持つことでもあり、私たちは一般的な意味において、どこかでそうなる=分別の果ての前で、一旦の手打ちをしないといけません。それはある意味では、何か複数のものを「統合」してしまうということになります。そしてこの統合が音楽を体験する際にも働いていることは言うまでもありません。
※これは余談ですが、現代はこの「統合」と「分別」が極端に簡単に、もしくは難しくなった、という、本来は両極端のものが同時に存在する場所なのではと考えています。「私とは全然違う」や「これは私のことだ」ということの往復が様々なメディアや飛び交う広告によって、その合間で引き裂かれるようなシチュエーションすら生み出しているのが現実の環境ではないかと考える時があります。
かつての研究テーマ「何かと何かを異なる/同じものとして捉えること」。その実際の姿やそこから生まれた思考/試行は、是非コンサート会場で目撃してもらいたいのですが、私たちがこの「コンサート」というイベントに立ち会うとき、そこにはひとつの空間と時間があり、またそれが「音楽」というものにフォーカスを当てるならば、それは下記で記載するような「曲」と呼ばれ「統合」されるものと関係があることは当然あるかと思います。
▼曲と籠について
昨年2023年にロームシアター京都で行われた、KAKUHANで共に活動するKoshiro Hinoさんが発表された作曲作品(Sound Aroundという企画の中で行われました)にコメントを寄せた際、曲=籠をつくることだと定義したことがあります。その文章は下記です。
日野さんの作曲に数多く関わってきたけれど、そこでの「曲」という概念は、「音楽」というものに通常当てはめられるそれよりも、より広大なエリアを含んでいるように感じてきた。曲という文字の語源には竹や蔓で編んだ「籠(かご)」が関係しているようだ。作曲は「籠を創ること」と言えるかもしれない。籠に何が残り、何が通過していくのか?。私という「容れ物」を通じ、今回は客席から日野さんの新しい「作曲」を体験しようと思う。
▼虚無と曲、現在
少し話が迂回しますが、自分には今このときにおいて「音楽を創ること」に虚無感があります。その理由についてはここでは詳細には書きませんが、実感としてそのこと(音楽を創ることの虚無感)は確かにある。しかしそれと同時に「演奏」という行為を行うときには、その虚無がある意味では宙づりになるところがあります。これもここでは深入りしませんが、行為(演奏)と虚無(創作)の間のことを少し考えています。音楽に意味や意義を求めることがそもそも見当違いなのですが、この現実と音楽を照らし合わせることの難しさを思います(「音楽は、いつの時代にもその原理のうちに、来たるべき時代の告知を含んでいたのだ。」は、ジャック・アタリ「ノイズー音楽/貨幣/雑音」に書かれた言葉ですが、今の音楽にもそのことが言えるのかどうか?。そのことを考えています)。
話が脱線していますが、何が言いたいかというと、音楽を創ることの虚無というのは、言い方を変えると、「曲=統合」ということへの違和感なのだと少し思っています。もっと言うなれば、それが録音やレコード、CD作品でなく、「コンサート」や「観客」という存在を前提にしたものである場合、何が「合わさる」ことでそれが「曲」のようなものへと変化するのかについて、今現在、音楽や作曲の「内部」だけではその完成や統合というものは実現しないのではないかと考えているということです。
▼統合ではなく、籠に残ること(環境?)
先ほどの日野さんのコメントを改めて考えます。曲はその語源からも「籠(ケージ)」のようなものであると言いました。籠とは何か改めて考えてみます。それは何かを入れて運ぶことや保管、管理(監視)することができますが、その網の目よりも小さいものはそれを通過してしまいます。ただその網の目は空間、場所としても存在していて、例えば籠の上から大量の砂をかけてみた場合、その網の目の上にはかろうじて砂が残ることもあります(籠を運べばまたその砂も落ちてしまうかもしれませんが)。
ここで私は「曲」という概念は、籠の中の微かな層、或いはその微かな層や籠の中の空白やモノとモノとの間のことを指すことではないかと少し想像しています。ある空間を通過するメディアとそこに微かに残る何か=籠の格子の上に残るもの=それが私にとっての「現在の曲」の捉え方かもしれません。
また同時に私たちは「籠」のようなものではないかと思います。多くの細かいことはその網目から通過し残ることはないけれども、何かしらの「大きな」或いは「極めてささやかな」ことはそこの中にとどまり、それが時にその人の所有物となる。しかしその所有物も時には劣化し、崩れ、またその網目から通過していく。聴くこともそれに関する記憶も、どこか籠のようなものではないか?。音という消えていくものが私たちを通過し、その「網目」に残ったもの=「記憶」と、通過した=亡きものの間で私たちは何かしらの行為をしているように私は感じています。
今回のこのコンサートでも、そういった環境=曲=籠の中の微かな層を念頭におきながら、些細な層をそれぞれの観客の皆様に届ける/積み上げることができればと考えています。
▼重ねあげた響き?
最後に、前のクリエーション日誌でも書いた今回のコンサートを創る際の大きなインスピレーションとなったパプアニューギニアの「カルリ」という民族が持つ「重ねあげた響き」という概念を紹介しておきます。曲や籠の話と直接関係があるわけではありませんが、何かが「重ね合わされる」ということは、籠の中に何かが溜まっていくことと無関係とはいえないと思っています。
※重ねあげた響きの実際の例としては下記の音源が非常に分かりやすいものかと思います。
「重ねあげた響き」とは…
いくつもの声や音が互いズレながらも同調している状態。
平等主義(皆でそれをしよう)と個人主義(自分がそれをする)の間の緊張関係であり、その関係によって成立するもの。
空間性(重ねあげる)と時間性(響く)の両軸を兼ね備え、ひとつひとつの音がそれに先立つ音の場や隣接する音の場に共存する。
視覚的なイメージが音の形式のなかにあらわされ、また音の形式が視覚イメージのなかに取り込まれた空間音響的な隠喩。
継起的(物事が相次いで起こること)ではあるが線的ではない連続したいくつもの層、切れ目がなく多重的で密集した存在、或いは細くなったり太くなったりしながらわずかに前に倒れてはまたもとに戻るといった螺旋状ないしは弓状の動き。
※上記はすべてスティーブン・フェルド著「重ねあげた響きーカルリ社会の音楽と自然」から引用
このように今、書いたことが、ロームシアター京都でどのように「現実化」するのか、是非目撃していただければと思います。いよいよ今週28日土曜日に初演です、、、!
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