2017年くらいにリリースしたCD「音楽と、軌道を外れた」は、自分が初めて「中川裕貴」という単独名義でリリースした音源です(ただあの時はまだ「、バンド」という集団だった)。その音源では、「音楽」というものと相対し、なおかつそれを演奏しながら、それが向かう一般的な軌道から「どれくらい外れることができるか?」ということを試みていました。
(その試み、問いの立て方自体に矛盾があることは今ならわかります。振り返るとあの時は良くも悪くもエネルギーがあったので、今よりもはるかに冗長な文章や振る舞いを繰り返していました)
※上のダイジェストを聴くと大体このときに自分がやりたかったことはここに集約されています。あとCDのリリースページの先にある色々な方からのコメントからも、この時の私の音楽に対する状況が垣間見えました。こうやって誰かからもらった便りが私を変容させてくれることは改めてありがたいことです。
ただこれは今も思うけれども、音、特に楽音(例えばピアノとかチェロの音)が鳴った際に広がってしまうある「道」のことを考えます。音が一音、そして一音と空間と時間に置かれていくと、私たちはそれを辿ってどこかにいこうとする。そのある意味では半自動的に生成される道に対して、何かしらの迂回や寄り道、行き止まりがあると主張したかったのだと、あのときの自分を振り返ると思います。道に迷っているのにニヤニヤしている、そんなところだったのだろうか?。またそれを「、バンド」という集団でやることでなんとか正気を保っていたのか?その真意も今はよくわからない。
なんだか振り返りモードになっているけれども、あのときの迂回道路工事みたいな作業は、今は表面的にはやっていないように見えるけれども(自分で弓を開発して、それに合うような「音楽」を創ってしまっている自分がここにいる)、ある意味では今もまだ「地下」で行われているように感じている(そうでありたい)。また今、自分がやっているのはその「工事」の遅延から、見落としていた何かしらの音楽に関わる石(意思)や糸(意図)くずを探すことに関係があるのかもしれない。
だから、このように、何かしらの「道から逸れること」をやってきたところがある。そしてここで話が少し飛びますが、今、私が手にしている弓の一部はその木が反り、歪曲しています。私はそれを自分でつくり、それをこの4年ほど、自分の身体や演奏行為を接続することを試みてきました。音楽との距離を取りつつ、明後日の方向に歩きながら、今、反ったものを私は手にしている。
しかし枝は何故「曲がる」のだろうか?曲がる=弧を描いて存在するその歪曲の意味を考えると同時に、歪曲しているが故に、楽器の指板と弦という「直線的な物体」との関わりにおいて、その弓はハーモニー(同時刻に複数の音が生じるということ)を生み出すことができている。そしてこの自作の弓から出る音は、通常の弓と比較すると、僅かではあるが、柔らかく、芯を持たない音になる。また場合によって意図しないノイズや軋みの音を発生させる。
そのことと数年向き合いながら、あるとき向かうべきものは、音楽そのものではなく、「耳」なのかもしれないと思ったところがある。そして奇しくもそのわたしが向かう耳の耳介は緩やかな曲線をもち、鼓膜の奥にある蝸牛はある弧を描いている。
(勿論その思考のきっかけは弓だけではなく、この4、5年の世の中の歪曲した動きも大きな影響を私に与えた。また向かうものは音楽でも耳でも大差はないのでは?と感じる人もいるかと思いますが、音楽という恣意的なものよりはっきりと対象としてある「耳」や「聴くこと」に向かうことがこの迂回を経たことでできるようになったのだなあとご理解頂ければ幸いです)。
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「軌道を外れること」は、ある曲線を描くことだと言えないだろうか?。
そしてその「外れ」=曲線は、今私が手の中に持つ「弓」というものの中に内在する要素となっている。そして、この私の思考の曲がり/角において出会ったものとして、「ここではない音を出す存在」つまりDJ=威力さん(1729)との話がある。
チェロという楽器を演奏し続けてきて、初めてそこに「他者」でありながら、どこか同じ「声」を持っているように勘違いしてしまった存在について、次の日誌で記そうと思います。
そして、そろそろこのクリエーション日誌も終りを迎え、本番へと向かいます。
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