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Essay3: On Stills and Remains|音楽、建物。そしてすきま風

  • 8月21日
  • 読了時間: 7分

更新日:15 時間前


今回は「音楽、建物。そして、すきま風」と題して、アルバムと近年の活動について過去の自分と照らし合わせてみます。


そしていよいよ東京リリースイベントは次の日曜日=8/30です。


自分の名前が冠する作品として、KAKUHAN以外で録音に残っていて、またある意味で「思考/試行」が統合されたものは中川裕貴、バンドのアルバム「音楽と、軌道を外れた」(2017年リリース)がそれに該当します。このアルバムと今回のソロアルバムを両方聴く人がこの世に何人いるかなあと思いますが、自分で眺めたとしてもそこには大きな変化があるように感じています。


※中川裕貴、バンドのアルバムのダイジェストは下記リンクで聴けます。これでほとんどアルバムの内容がわかってしまうという、売上のことをあまり考えていないダイジェストです。


これは現時点での自分で自分への批評になりますが、「、バンド」をやっていたとき、自分は「音楽」への愛憎?とか自分の可能/不可能性?みたいなものとどのように相対するのかいうことを考えていたのだと思います(パスカルキニャール「音楽の憎しみ」を読んでいたころでした)。つまり「相対する」ことで、音楽をどこか客観視、対象化できるものだと考えていて(自分が演奏し生み出しているのにそれを完全に対象化するのは無理という矛盾をはらみつつ)、バンドのこのアルバムはそれについての作品だと今では理解しています。

 バンドのアルバムを録音していたのが2015年~2016年くらいだったはずなので、そこから10年くらい経てリリースした今作については、別なものになっているのは当たり前なのですが、それが前作とどのような関係/無関係をもっているかを、自身の現在の創作に対する思考含めてメモ程度に書いておきます。


「音楽と、軌道を外れた」のアートワーク
「音楽と、軌道を外れた」のアートワーク

▼音楽と相対する、音楽を対象化する

 前作はつまり、音や音楽をどこか「建物」のようなものとして考え、それに対しどのように(破壊)工作をする/されるのかが前作の大きなポイントでした。そして今作においてその様相は大きく異なっているように思います。新しいアルバム=Stills and Remainsを聴いて貰えばわかりますが、演奏をして出来上がる音に対して、私はほとんど分かりやすい抵抗や細工をしていません。その変化は非常に大きなところです。


どうしてそのように変わったのか?それはつまるところ、元も子もないことをいうと、自分が少しだけ「音楽」ができるようになったのと、また音楽と「そうでないもの」との自分の区分けが適当になってきた(そもそも区分けることへの疑いが出てきた)、または音楽にある意味で「気後れ」しなくなったからだと感じています。その理由は自作でチェロの弓を作成したりしたことも勿論大きいですし(これはかつてここでも書きました)、単純に「なんとかして”音楽”をやっていかないといけない」というシチュエーションに自分が置かれそれをこなしてきたことによる経験ということもあります。


今ここには、自分も結局は「音楽」に飲み込まれているのだなあという半ば諦めのような心持ちもあります。ただ「(お前も)音楽の歴史やトレンドの流れに乗って行ってしまったのか、、、」というと「そうでもないよ!」と言いたいところもまだあります。そしてそのことを言いたい存在として、このソロアルバムがあるとも言えます。


▼音楽が建物?

音楽が建物のようだ、といいました。キャリアを積んで、また様々な音楽を知りました。前作を作ってから今作までの間、自分のリスニングという意味で大きかったのは、数多くの民族音楽を聴くようになったことだと感じています。所謂、藝術のための音楽ではなく、もっと生活というか演奏者自身と音を切り離すのが難しい音楽を知れたことは非常に大きいことでした。そこには自分が生み出した音を他者として見/聴き、それと相対するという側面はそんなにないと感じています。


そして、聴く音楽や心境の変化から、「ああ”建物”は在って、それをどうこうすることは勿論できるけども、それをわざわざ破壊することは自分は今や気乗りしないなあ。もっと豪快に爽快に破壊してきた/してる人は周りにいるなあ」と感じたところもあります(豪快に爽快に破壊するヒトと私が思うのは、日本だと、山本精一さん、工藤冬里さん、宇波拓さん及びHOSE、またCore of bellsなどが真っ先に浮かびます。自分の音楽への抵抗は彼らに憧れてやっていたところが少しはあるのです)。


そこで、では私が何をしたのかというと、それがタイトルにある「すきま風」ということになると感じています。


Photography by Yoshikazu Inoue
Photography by Yoshikazu Inoue

建物=音楽を様々な角度からみてみました。それは時に堅牢なものでもあるけれど、角度を変えてみてみると継ぎ接ぎだったり、隙間があったりするように私には見えました。かつての私であれば、その隙間にバールをねじ込み板をひっぺ剥がす、それに火を放つみたいなことをしていたと思います(他人からそのように見えてまくても自分はそうしていると考えていたのです)。しかし今作ではそういうことは止めてしまいました。


(「どうして止めてしまったんですか?」は高畑勲による宮沢賢治の小説をアニメ映画化した「セロ弾きのゴーシュ」において、カッコウがゴーシュにいうセリフ。これを聴くとき、自分はどうしてもいたたまれない気持ちになる)。


止めてしまった理由は前述の変化が関係していますが、今回のソロアルバムで自分は、その建物の前に立ち、様々な道具(抽象的には団扇、扇風機、あるいは吐息/具体的には身体や弓、手)などを使用し、その建物に風を通してみました。


▼風を通すこと

 2020年から三重の誰も住んでいない実家をメインスペースとして、生活拠点を移しました(今はそこから変わっていますが、2020~2024においては間違いなく生活拠点はここでした)。古い家に改めて住んでみてわかりましたが、空気を通してあげないと家はどんどんダメになります。家に風を通すことでどのような効果があるかはわかりませんが(ざっと考えて、湿気は減って朽ちるスピードが下がるとか?)、窓を開けて空気を入れ替えることで起きることはまあ確かにありました。建物としての音楽にある意味での風を通す、そしてそこから聴こえてくる何かについて私は考えたかったのかと今ここでは思います。


それとこれはまた別項で詳しく書きますが、このアルバムはかなり「微妙」に作ってあって、それがここ4年くらいの自分のムードというか、音楽との付き合い方だったのかもしれません。だから正直、この作品の意味とか意義が体調や気分にによって揺らいだりします(だから今このときのテンションのときにここに書いています)。


「あばら屋に風を通したんですよ」。このアルバムはそのようなことを声を大にして言いたいわけではありませんが、ひとりの人間がひとつの楽器を使ってできることの意味や意義、包括するテーマなどを考えたときに、「単に慎ましいものです…」という以外のことを考えて、想像して、このような文章をここに書きました。


アルバムの撮影時のオフショット(採用されなかった写真) by Yoshikazu Inoue
アルバムの撮影時のオフショット(採用されなかった写真) by Yoshikazu Inoue

▼掛ける、駆ける、欠ける、賭ける

 バンドをやっていたとき(なんだか止めたみたいな書き方ですが一応止めてはいません)、「音楽とたたかうこと、たたかわないこと、その廻りの賭け事」という名前でイベントしたことがありました。たたかうこと/たたかわないこと。今は武装解除しました。向き合うのではなく、それとある意味で「同化」しました。そして、そうして、「田舎」でただ佇んでいるのか?。いや、そうではなく、わかりやすいたたかい、簡単な対象化(対称化?)をやめてしまっただけだと個人的には思います。そんなに良い読者ではないけれど、さっき一瞬出ていた宮沢賢治もそこできっと何かと戦っていたのでしょう。内なる憤りがあったのでしょう。アルバムアートワークが示す田んぼのど真ん中のチェロにもそのような思念がある…。


隙間だらけ、田畑の中に孤立する隙間だらけのあばら屋(私の家だ)に風が吹き、なんだかわからない呻き声をあげることがある。孤立し、干渉されるものが何もない対象に風が吹くことで音が鳴る


風がある建物の隙間を通るように、とある動物(多くは馬)の毛が、弦の上を掠め、通るとき。そこで生じる「声」のようなものに意志があるかないかは聴き手が決めることだけど、その声でもって何かに向かうことはまだできると考えています。音はいつもはっきりとした態度や意志、感情ばかりを運んでいるわけではないと考えているからです。


聴くことから生じるイメージのようなものは、現実/このとき/この場所からの移行を促す「運動」になる。その是非や意義を考えながらも、弓の往復運動がどこか風のようなものを運んでくる。そしてその風が時にして「声」のように聴こえることがある。今の私はそこに賭けて(掛けて/駆けて/欠けて)いると言えるのかもしれない。


こちらも同じくアルバムアートワーク撮影時のオフショット by Yoshikazu Inoue/個人的にはこの写真がアルバムの2曲目=CHU-MAのイメージに限りなく近いのです。
こちらも同じくアルバムアートワーク撮影時のオフショット by Yoshikazu Inoue/個人的にはこの写真がアルバムの2曲目=CHU-MAのイメージに限りなく近いのです。

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parabasis1 - Yuki Nakagawa
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