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Diary|ステートメント2023

自分のチェロの演奏について。それはほとんど内的な些細なことで、言語化しても伝わらないことが多いけれども、今年最初のライブを迎えるに辺りにちょっと書いてみる。ずっと演奏してきて、その都度少しずつ変わってきたことの現時点での記録としてのステートメント。

 

もう言うのも飽きたけど、私はチェロは今まで人に習わず勝手にやってきていて、そのためなのか?。「特殊」と言われることをするのが一般的なチェロ奏者よりも多い。例えばチェロを叩いたり、チェロの振動をピックアップで拾って電気機器=エレクトロニクス(エフェクター)を介して、音をまた別のかたちに変えること、またはチェロという楽器をプリペアドすること(楽器に物理的に細工をする。例えばチェロに普通はつけないカポタストをつけたり、弦に弦を巻き付けたりするなど)、指板をちゃんと押さえないハーモニクスといって良いかもわからない演奏などなどがある。

あらかじめ言っておくとこれらの奏法それぞれは別にそこまで特殊でもなくて、様々な古今東西の音楽の歴史のなかで既にあったりするものだ。ただ、変とはいわれることは理解はしている[1]。


変、特殊ということを、場所がズレていると言い換える、として。また「普通」ということば。この言葉はなかなか今は使用が難しいとしても、しかし私の演奏は、楽器、ことチェロに対するアプローチとしてある程度はズレているとも感じる。もう少し言うと、この楽器がもつポテンシャルのようなものをある意味で「斜め」に、受け損ねて、ここにいるような気がする。ただそもそも「ポテンシャル」というものはいつもそれを発揮する必要はない(ポテンシャルとは潜在的なものなので、それをひたすらに潜ませておくことも可能である)という気持ちはあり、少しだけ通常と異なる使用法を続けてきた私は、そのズレを確かに認識している。



(これは今の発言と矛盾するが、私の持つチェロ=これはオーダーメイドで作ってもらったもので一般的なチェロと少し異なっている、というか、巷にあるしっかりした楽器としての「チェロ」よりは楽器の完成度が低いというか、一般的なチェロの音を出すことを特化した楽器ではないので、そういう意味では私は、わたしなりにこの楽器に潜んでいる力を引き出しているという自負もある)。



そもそも出現した座標がズレてたので、そこから生じた運動も多少はおかしいものになってるのは当り前だが、それで多分十年くらいやってきた。まあまあズレは意識してる。そして音楽の「本筋」みたいなものがあるとして、それ=音楽の本筋?も自分の妄想に違いないが(そんなものを信じている自分の、ある意味での信心深さ?も気になるけれど)、同時に音楽の、楽器のポテンシャルを"生かす"音楽やプレイヤーも事実として横目で見てきた。音楽は人の中にそれぞれのかたちであるようだ。


・・・ 話がややこしくなってきたかもしれないけれども、要は私と特殊奏法と楽器(チェロ)のポテンシャルとの関わりについて思うことを書いた。



ただ今というかここ数年において、このズレのようなものを、是正というか、「ズレをさらに揺らすもの」として、出会った自作の弓のことをここでは語りたい(ここまでが前置きです)。


それは私以外の人にとっては些細なことだけども、自作のチェロの弓とそれから起きる演奏行為について。自作のチェロ弓=これはバッハ弓と言われるものを真似て自分で作ったものである。バッハ弓について、昨年私が書いた使用中の内観のようなものを下記に記す👇


2021年からバッハ弓という自作の弓を作成し、それによる演奏に取り組んでいます。このバッハ弓という弓は歴史上の「間違い」から生まれた弓です(バッハのシャコンヌという曲の演奏で、同時に3つ以上の弦を鳴らす必要があると理解された時代があり、この弓はそのときに開発されたらしいのですが、結局それは間違いで同時に鳴らさなくて良かったものでした)。私はその「間違い」はひとまず置いておくとして、その「同時に鳴る」という部分に興味があり、その辺に転がる歪曲した木の枝を使ってそれの試作を2021年から始めました。試作してみると以外とそんな弓(歪曲した木の枝に馬の毛を取り付けただけのもの)でも演奏ができ、そこからこの弓でできる演奏を考えていきました。今までこの弓は試作品も含めて3本作りました。今はそのうちの2本を使います。


バッハ弓を使用していて面白いところは、もちろんその同時に音が鳴るところ(ハーモニーを独りで作り出せる)はあるけれども、また別でその音の「雑音性」に惹かれている部分がある。雑音性とはどういうことか?


私のバッハ弓は、弓の毛(馬の毛)の片側は木に固定されておらず(通常の弓の毛は両側が固定されており、ネジでその張力を調整します)、自分の手で毛を握り、それによって弓の毛が”張っている”状態になっています。その手による「張り」はかなり不確定であり(演奏していくとどんどん緩んでいくこともあります)、またバッハ弓の毛はまばらで通常の弓のようにまとなりがなく(固定されていないことが原因ですが)、どうしても1本1本の弓がきれいに同じ方向を向くわけでもなく、また短さが異なるものもあり、それを弦の上で滑らせるので、どうしても発生する音がまばらになり、また発音と同時にどうしても雑音(意図せざる音)を連れてきてしまう部分があります。これに今も苦労してる部分があるけれども(かけた力=パワーに比例して音が正確になるわけではない、単純な筋肉疲労もある)、同時にまた別のことも考えたりしている。


自分は演奏家であるから楽器をコントロールしたいと思っている。ただそれと同時に、演奏において逐一自分がやったことを「忘れること」、コントロールできない部分を大事にしています[2]。そういったポリシーからもこの自作バッハ弓の特性は自分の演奏思想にしっくりきており、どこかこれまで通常の弓では物怖じしていたような「メロディー」や「ハーモニー」も、この弓でなら弾けるような気がしています。まあ気がしているだけですが。そしてこれは他のひとからは些細なことかもしれないが、自分にとっては大きなことです。バッハ弓は私がある意味では「毛」嫌いしてきた大文字の「音楽」に対して、その滑走路を用意してくれたように思います(まだそこを走るとは言っていない)。


その弓は、まばらな毛で、時に弦に不格好に絡まりながら、その上の走り、滑り、そしてそこから音は発生し、私を含む、楽器からみた「他者」の方へ飛んでいく。そして意図しない音もつれてくる、それをまた演奏者の私も聴き、たまに自分が出した音に驚き、またその音の再現は不可能だったりする。そしてこの弓を構成している木の変なしなりや捻じれが私の身体を再定義するところもある。この弓やここから生まれる音との関係性の中に、私は私なりの「自然」というか、身体や音に対する別の関係性のようなものを考えています。



・・・というようなことを、ここ2年くらい自作の弓で演奏をしながら考えてきました。そしてこの弓が自分の手にあって良かったと思っている。


自分がいつもとても幸運だと思うのは、何かしらの行為や現象に飽きかけたときに、別の何かしらの存在が働きかけてきてくれるというところがあって、この弓もまたそうです。このよくわからない歪曲した枝と馬の毛が、私の妄想の中の「一般的な音楽」からの「逃亡そのもの(家出)」を揺らしてくれている。


「逃げることから揺らす」ということばは、一見何のことかよくわからないかもしれないがそういう表現がしっくりきている。


大袈裟なことを言ってるのは自覚してるが、この弓が持ってくる不安定なプレイの揺れが、私を特殊なそれではなく、もっと「音楽を揺らすこと」へと向かわせてくれる。そして揺れるから、結果としてそこ(音楽)に近付く可能性がある(トントン相撲の原理で)、可能性はある(潜性力がある)。そういうポテンシャルをその弓が私に持ってきた気がしています。


プレイヤーの内面など知らなくても良いことかも知れないが、それでもここに書いておきたい気持ちになりました。この弓だと狙ったことと違うものが出てくる可能性があって、楽器の演奏というものは、ある意味では意図したものを、意図通りに時空間に現実化するのがテクニックということだけども、ここにあるのはもうすこし不安定で、私と楽器と不図された音の関係が結ばれる可能性をはらんでいて、わたしはその環の中にいることが好きだ(そもそも半分くらいは何が弾きたいのかわからないままここまで来たので)[3]。


そしてこの不図した出会いと、最初に書いていたこれまでやってきた「特殊」というか座標がズレた試みとどのようなかたちで混ぜていくかもまた今年の大きな興味でもある。それを今年は少しずつオープンな場で試みていきたいと、今年初めてのライブの前にここに書いています。




・・・


この文書では「ズレた」とか「些細な」という言葉を何度か使った。そういう意味でも?、今自分はどんどん”地味”(はなやかでなく控え目なこと。飾り立てて人目を引こうとはしない態度)な方向に向かっているようにも思う。世界は加速して、キャラクターが謳歌し、仮想空間は出来上がりつつもあり、アニメーションが跳躍するような世の中で、この何にも無さは如何なものかと自分でも思うのだけれども、ひとまずはここで落ち着いているので、その地味さを忍ぶことにしようと今日は考えている。


ずっとそこに居続けたら、気づいたら誰もいなくて、それが「前衛」になる可能性、あるいはずっとそこに居るためには実はずっと動いていないといけないという事実も頭の片隅に沿えて。私にもかつて何か外向きに演奏を通じて言いたいことがあったはずだけれども、今、このような内的なはなしをすることが関の山というか、自分なりに外的な環境への働き方として、今はこの方式をひとまず採用して、また次に何かに出会うことを、歩きながら考えたいと思っている。


誰も来ないかもしれないけれども待っている、弾きながら。「誰か」と呼びかける前から、ずっと音の中に誰かがいる。


意思、不図、音。


 

※注釈:

1:かつて2020年くらいに、自分の演奏についてまとめたテキストが下記リンクのものです。


2:尊敬している大蔵雅彦さんが運営するレーベル「No Schools Recordings」からの、リリース「Bending Contumax by Jean-Luc Guionnet」の大蔵さんによる解説文が、ここで自分がいっていることにかなり近いというか、テクニックとその回避についてすごくしっくりくる文章です。


3:「不図」ということばで九鬼周造が下記のようなことを言っていて、それが気に入っている。不図とフット。この一見ダジャレのようなところから発生した偶然性のようなものの誕生を、九鬼がス音で言っていることと、バッハ弓のその音は無関係なようには自分には思えない。


私は今は偶然性の誕生の音を聞こうとしている。「ピシャリ」とも「ポックリ」とも「ヒョッコリ」とも「ヒョット」とも聞こえる。「フット」と聞こえる時もある。「 不 図」というのはそこから出たのかも知れない。場合によっては「スルリ」というような音にきこえることもある。偶然性は驚異をそそる。 thrill というのも「スルリ」と関係があるに相違ない。私はかつて偶然性の誕生を「離接肢の一つが現実性へ するりと 滑ってくる 推移の スピード」というようにス音の連続で表わしてみたこともある。|九鬼周造随筆集 (岩波文庫)より



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