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Note|「アウト、セーフ、フレーム」あとがきⅡ

(かなり間が空いてしまいましたが・・・)「アウト、セーフ、フレーム」あとがき、その2では実際のコンサートについて話をします。今回のコンサートはその内容を1部~4部の4つのまとまりに分け、上演しました。それぞれの楽曲についてのメモと全体に通底する流れについて今記憶にあることを書き連ねておきます。今回はコンサート全体のことと、1部の中のいくつかのことについて書きます。


それと当日会場で配布したコンサートプログラム(楽曲説明)は下記リンクから確認できます。まず各部で何をやろうとしたかがここに簡単に書かれています。


※本当は下記のほとんどを2020年の8月~9月に書きましたが、なんとなくそのときは公開の気乗りがせず、また2021年現在においても少し書き足したりしながら、ようやく公開することにしました。今更ですが自分の反省のためにも載せておきます。



▼全体構成について:

まずは全体の構成、つまり1部から4部の4つのまとまりにしたことについてですが、この構成でいこうと思ったのは、会場下見(5月8日)をしてから約1か月後くらいの6月上旬だったと思います。ただそれも後述するサウンドデザイン、照明、自動演奏、舞台機構などとの関係性に悩みながら、ひとまずの叩き台として自分がここまで考え、大事にしてきたことをまずは4つに分けて「コンサート」というかたちで提示をしようと思いました。個人的にひとつの大きなまとまり(例えば90分でひとつの演劇作品や長尺の楽曲)を創るのが余り得意ではないというか、そこまで興味や対象が定まってない=「ひとつ」ではないところがあり、どちらかというと古典芸能(能や狂言、神楽)などのようにひとつの時間を「演目」として分けて、その中で個々の興味や対象について語っていく方が良いと思い、そのような分け方をしました。当初はそれこそもっと「分ける」ことを考えて、それぞれの部の間にわかりやすい区分け(例えば4つの曲の間ですべて緞帳を降ろすなど)を入れるつもりでしたが、この辺りは荒木さんやスタッフさんと話をしていく中でわかりやすい区分けは無くしていくかたちになり、今回のようなある意味で「4つのまとまり」が続いていく形式になりました。


また分け方は何であれ「コンサートをしよう」という風に思ったのは会場であるサウスホールをみて決めたことです。ただそれもその方向へ一直線にというわけではなく、これはサウンドデザインの荒木優光さんとも何度も打ち合わせをしながらいろんな可能性を考えながらここに落ち着きました。当初は客席の中ににもっと大きな差をつける(一様な鑑賞形態を無くすみたいな)、例えば客席に小屋や巨大な仕切りを創り、完全に別の鑑賞方式を提出するみたいなプランもありましたが、それを実現するためにはいろいろと予算が足りなく、また前述のように僕が構成をある程度固めてしまったところもあるので(これは反省点でもあります/次回はもっと何もないところから進めたい)、今回はこの場所を使用した最大限のコンサートをというところに着地しました。



・コンサートとその外部/舞台の設え、機構について:

サウスホールでやるということで特に影響をうけたことは、あとがき1でもあった座席配置もそうですが、サウスホール自体の舞台機構も大きな要素でした。特に今回の公演では緞帳(2種類)の昇降、反響板(オーケストラやアンサンブルが演奏するために使用する音を反響させるための壁)、吊バトン、照明バトン(やはりこのクラスの会場の照明レーンはメカニックで凄かった)など、備え付けられた設備もそうでした。今回の4つのまとまり=楽曲にはこれらの舞台機構もその曲の一部として組み込もうと考え、それらの操作も演奏の時間の中に組み込みました(単に舞台装置動かしたかっただけじゃないかという指摘もあるかもしれませんが、あるものをそのまま使用し、そこに何か足すようなことはしないように今回したつもりです。今回は舞台美術的なものも含めて既設のもの以外はほとんど入れてません)。これら機構の稼働に関しては、ロームシアター京都サウスホールのテクニカルスタッフのみなさんに協力を頂き、実現しています(リハーサルから本番まで何度緞帳や反射板、バトンなどの上げ下ろしをお願いしたことか…)。意味不明だったかもですが、協力とても感謝しています。


※1部の途中で絞り緞帳が降りてくるところ。気に入っている写真の1枚(撮影:井上嘉和)



・客入れ音、そして上演時のサウスホールの「再生」について:

これは荒木優光さんに今回参加してもらった中で大きなトピックとなったものですが、今回の上演において、事前に無人のサウスホールに数十本もマイクを立て、その中でやったいくつかの行為(別項で記載)を録音、そして上演時にはそのマイクを立てた場所=録音した場所にスピーカーを置き、文字通りその空間を「再生」することを行いました。(これも2020年7月~8月というコロナ及びその影響でホールが全く使われていない状態だからこそできたものです。無人のサウスホールでの体験は貴重でした)。また開演前の謎の演奏(これは私と荒木さんと音響の甲田さんで演奏したものを録音しました。緞帳の洛中洛外図と謎に良い関係性があったかと思います)や上演時にいろんな箇所でこれらサウスホールで録音した音が再生されました。


※再生スピーカー設置の一例(録音した=マイクを設置したところと同じ場所に再生するスピーカーが置かれています)


そしてこの「再生」に関していうと、その場所で録音し、同じ場所から再生することの音場の「リアル」さにまず驚いた(現実空間に別の時間の音場が現れるという感じでした)のはもちろんですが、そこから自分が考えていた別の「再生」との重なりを感じました。別の「再生」。公演前のコラムではこの公演について、「もう一度何かになる」ということについて考えていると書いてました。これは行き場や意味や距離を失った/隔てた音や現象、或いは壊れた楽器に対して、それらの再生成のようなものを考えるということを意図しており、そういう意味でここにも「再生」ということばがありました。なので今回個人的にですが二重の「再生」という意味でもこの公演で荒木さんのプランを実施できたことは非常に実りあるものでした。


各部を語る前にまだ言い残したことがあるような気がしますが、とりあえず次に進みます。



▼1部「声/性Ⅰ」について:

前置きが長くなってしまいましたが、下記では1部のことを追っていきます。なおこの1部の主な構成要素は下記です(上記リンクの楽曲説明にも記載があります)。


中川かつての「研究」の説明

俳優の発声(日本語の逆再生)と移動

中川のチェロ演奏

録音の再生

舞台機構の使用(緞帳の昇降など)


これらのことを複数のレイヤーとして同時多発的に物事を起こし、その混雑/混乱も含めて、楽曲に仕立て上げるみたいなことを考えました。1部はプログラムにもあるように、チェロによる様々な声の模倣と、音の“分別”についての私の説明(大学院時代の研究=音脈分凝について)、また日本語を逆再生した発話(それの復元/逆再生=いびつな日本語)、またそのステージの設え、またモニターから移される映像などなどから、これまでとは別の音とその周辺の繋がり、あるいは別の「環境」音楽への道を探すことを目指しました。


※開演後、中川の説明の途中で緞帳が上がり初めて見えるステージの状態(撮影:井上嘉和)


またもう少し踏み込んでいうと、この曲では「関係がなさそうな音と言語の羅列とそれらの情報を繋げることの”諦め”から、聴くことの別の”環境”を探す」ということを考えました。大量の要素がその楽曲の中にあり、それを統合あるいは分別していくことに対する諦めからコンサート及び、聴取をスタートさせていくということ。ここでその要素のすべてを語ることをしませんが、この曲を創る動機になったことや要素のいくつかについて書きます。



・多声性ということへの「違和感」とリアクション:

2018年のKYOTO EXPERIMENTにおいて、おそらく下記の記事をみたときだったと思うのですが、「多声性」という用語が使われていました。そのとき僕はその用語の使用にどこかしらの違和感を感じました。


違和感は感覚的なこと、かつそれがすべて悪いことではありません。ここでは多くを話ませんが、ひとつ。「多声」ということばはもともと音楽のことを指しているものだと思っています。そしてその言葉が今や音楽の外部に連れ出されていること。それ自体は良いことであり否定したい気持ちはないけれど、それを再び、音楽、演奏の場所に少し呼び戻すことをしないといけないと感じました。それは音楽が余りにも演劇や他の舞台芸術、或いは美術が取り組む、現代の「多声性」に対して無力、無理解であるように感じたというところがあるからです(また近年演劇などでセリフが"音楽的"と形容されているのを目にしますが、これにも多少の違和感を感じています)。「~を取り戻す」ということばは今や下品にも感じますが、音の側からリアクションをせねばとどこかで感じ、このタイトルのシリーズ「声/性」を始めました。


また上とは完全に矛盾しますが、同時に表現が「社会と直接関係を持たないこと」の一側面として改めてこの楽曲を考えました。多声性とは音を同時にいくつか響かせることを基本とする構成原理であり、その定義に立ち返ること。また社会からの遠い距離、ないし個人への没入。また名前のない、主語の薄い集団が作り出せることも音の特徴であると考えているところもあります(この辺りはまだまだ思考が不十分だとは自分でも感じていますが)。


このような思いつきや問いからまず「作曲」はスタートしました。そしてこの1部はその1番になったのですが、今後も声についての曲という取り組みは続けていく予定です。音の中にある「音声性」(ある音が声のように聞こえてしまう、或いは「声」として聴きたいという欲望なども含む)については今後もチェロの演奏や演出を通じて掘り下げていきたいテーマです。


・チェロの「歌」について:

チェロの「声」についていくつか解説しておきます。チェロによる様々な声の模倣(犬や鳥など)についてはそれはそのままの行為なので説明は野暮だと感じていますが(チェロによって他種のような声を出すみたいなことはここ何年間かずっとやっていて、それをなぜやってるかはこちらに少し書いてあります)、ひとつ「音楽」からの引用があったのでそれをお伝えしておきます。



Florence Foster Jenkinsという人の歌が好きで、そのレコードの中に入っている、とある曲の一節を真似て演奏をしている箇所がありました。Florence Foster Jenkins自体は最近映画にもなった人なので有名かと思うのですが、上の音源のような人です。私は古いクラシックの造詣が浅い人間なので、曲も知らずに真似していましたが(というかFlorence Foster Jenkinsでこんなんあったなという記憶だけでそれをチェロ上で実現=再生してました)、バンドメンバーの横山さん、菊池さんから「中川くん、魔笛弾いてるよね」と言われて、「これ魔笛なんですか」という感じでした。ちゃんと調べたら、モーツァルトの魔笛の中の「夜の女王」というアリアでした。なのでこれも楽曲に意味があるかと言われたら、このように意味はございません。

(余談ですが、魔笛には鳥人間の音楽?もあるようで、この楽曲の中で鳥の鳴き声の模倣を多くしていた自分は、これが鳥人間の音楽だったらより良かったなと思いました)



・声/性のチェロ演奏について:

それとこの1部のチェロ演奏について、考えていたことを日記に書いてましたので、それも下記に載せておきます。自分がどのような状態で曲や時間の中で演奏しているか、いくかのメモです。


声/性のチェロ演奏について説明する。それは手指が、耳が、目が、覚えていること/忘れていることに関することだと思う。チェロが声に近い楽器であることはよく言われている。そこからより「声」へと音を近づけようとした際に私が見つけた方法は、その弦を押さえる手指をなるべく駒の近くに置くことである。そのとき、その左手の手指は既に楽器のネック(指板)=首には触れていない。つまり触れているのは弦のみである。またその状態において、発音される声というのは非常不安定であり、音高的な観点でいえば、非常に再現性が低い=同じ「ドレミ」を出すことが難しい。
ここで何が生じているか?自分の手指の位置をみること、出ている音を聴くこと(そして手指の位置を修正すること)、或いはそれを声のまま(楽器の音高の音ではない/いやそれも勿論「音高」なのだが、ここではそれよりも優先されていることがあると言っておく)にして放置していておくこと(とにかく続けること)。
偶然、聴取、修正、放置。それら「あいだ」の領域を考えている。人も、鳥も、オオカミも、自分の持つ「声」を誤ることはないだろう(ジュウシマツにヘリウムガスを吸わせて調子の狂った声=歌をフィードバックさせると、ジュウシマツは明らかに違和感を持つという研究がある)。それに対して、チェロと楽器というフィルターをして自分の「声」を探し、再定義していくこと。声/性のチェロ演奏が目指している「失敗しながらも、試みて、発話する」道、またそのような問いが転がっているのではないか。間違ったまま発話し、時に歌う。方法の忘却と記憶の道すがら。声を再現すること、言語的な意味が薄い声を現実化すること。声には様々な側面がある。声の触感が音楽の成立に抵触していくような感じ。声の質の様々が空間を徘徊すること、一つではない声が徘徊すること、それを一つの楽器と一つの人がやるということについて。


・日本語の逆再生について:

この曲では私の演奏と説明以外に、3名の出演者(出村さん、アキヅキさん、武内さん)に日本語の逆再生の発話をして貰いました。それは「ことばではなく」や「かんじのほうのけーじ」「もののはずみ、ぐうぜん」などのセリフを逆再生のかたちでやって貰いました。

※テキストについては、自分で考えたものと、「九鬼周造随筆集 (岩波文庫)」からいくつか引用したものがあります。


そしてその音をリアルタイムで録音し、エフェクターを使用し録音された声を逆再生し、その「逆再生の日本語」を復元する(機械で逆再生することで正しい日本語になる)という事を行いました。この試み自体は後述する3部のチェロ自動演奏を実現してくださった白石さんと出会うきっかけになった2017年のイベント「水中エンジンredux」でのパフォーマンスで初めて試み、以後特に出村さん、アキヅキさんについてはそのワークを継続してやってきました(私の舞台や曲ではこの行為は何度か登場しています)。


このこと自体はただ話者がリアルタイムに話すときには意味のわからない声が、時間が経ってそれが逆再生されたときに、「わかりにくい日本語」に聴こえる(そしてそのときにはその話者はいない)ということ、またそれが3人の話者の声が重なるということだけで「意味」がさほどないのですが、このあとに記載する自分の研究(音脈分凝)の説明と何らかの「韻」を持つと個人的に感じ、3人の話者にはこの「意味の薄い作業」をずっと継続してやってもらいました。ただその意味の薄さやわかりにくさが楽曲の構成要素のひとつになったということは今でも確信しています。


また日本語に問わず、「音声のわかりにくさ」或いは「わかりにくさの音声化」ということについて今非常に興味があって、その観点から最近は漢詩についても興味が沸いています。


撮影:井上嘉和



・音脈分凝/促音について(中川かつての「研究」の説明):

この曲の冒頭において、私はMCで下記の説明をしました。


 音脈分凝について

 促音について


音脈分凝は自分が大学院でやっていた聴覚研究の主要なテーマのひとつでした。この意味は上演時にも話したように「物理的には,1つの時系列として離散的に並んでいる音を,聴き手の脳が,複数の別の音脈として聴き取る現象」ですが、要は「いろんな音の集積を分別して、ひとつひとつ解読していく」みたいなことです。自分の研究の詳細を説明するとかなり長くなるのですが、私が大学院時代にやっていたことをシンプルにすると「ヒトの声の流れが、それが1人によるものなのか複数人によるものなのかを、声の中のどの情報(ピッチや共鳴周波数の配置、話者の寸法情報)を介して認知しているのか?」ということでした。そしてその研究以降(研究者の道を諦めて以降)においてもずっと考えていることは、「ひとつとは何か?」というある意味で哲学的な問いです。1部はそういった問いを楽曲の中にねじ込んでみたというものでした。


また促音ということについても語りました。促音についてはネットに情報があるので調べてみてほしいですが、「「きって(切手)」「いっしん(一心)」「けっか(結果)」「ラッパ」などの、仮名「っ」「ツ」を小さく書いたもので表される部分の音=つまる音」ということです。つまる音と言われていますが、そのつまる時というのは音響的にはパワーが弱い、或いは無に近づくようなものになります。この1部ではこの促音について、「馬の足音(パッカパッカ)」を例に、そのパワーが無い、或いは無に近い音について説明をしました。


※冒頭の挨拶から音脈分凝の説明にかけてのところ。洛中洛外図が描かれた緞帳をバックに(撮影:井上嘉和)


これらの認知科学や音響心理学、そして言語学におけるパワーの薄い音(促音)についてのの用語説明/実演、また現実に起きる音や行為の重なりに、私はなんらかの関係、或いは可能性を感じて、このような組み合わせを実現しました。あともう少し言うならば、今回の作品ではかなり広い会場で、様々な現象や物や人が大きな繋がりや意味、物語を持たずに混在し、同時に現象が進行するような状況を招きました。大きな場所において、人間の限定された視覚や認識のレベル、また先の音脈分凝の説明にもあったような人間が複数の音を「統合」しようとしてしまうことについて、その臨界を探り、ある意味で情報過多、結びつきの脆弱さからくる理解/認知の「あきらめ」から、どこか別の作曲や音楽のチャンネルを開けないかと考えました。


抽象的なことを言いますが、「人間の認識/認知の"あきらめ"から開かれる、音楽に残り余るもの」というのはまだ私たちが試すことがあるように思っています。



・テキストが現実化すること(テキストと楽曲/実演について):

公演後にTwitterで、以前からお世話になっている「&ART(中本さん)」が感想を載せてくれていて、それが非常に興味深かったのでそれを交えて少し書きます。


私はずっと「中川さんの掲げるテーマ」と「実際の演奏」、「中川さん自身の書く解説」と「実際の演奏」の距離に違和感があって、どう向き合えばいいのか決めかねていたけど、今回はじめてそこに折り合いがついた(中川さんの伝え方が改善されたのか、私の中で折り合いがついただけなのかは不明)。中川さんの思考や興味は解説(作品の外/具体性)として書かれるよりも、1部冒頭のように、テキスト自体が作品(作品の中/抽象性)に取り入れられる方が向いている。例えばある感情を解説するのに、わざわざわかりにくい文章を書く人がいるとする。感情を正確に伝えるということを目的とするなら話は別だけど、芸術においてその正確さは必ずしも必要ではない。むしろ抽象的だからこそ生まれる保留こそが時に表現の真髄であったりする。あと5年くらい前まで、中川さんは割と音楽/音楽じゃないということをテーマの中心に据えていたけど、今回はエモーショナルなメロディーが構成上のピースとして配置されていてそれがとてもよかった。逡巡のすえに、手札として配置できるということ。

長年自分の演奏をみてくれている中本さんが評価してくれたのは非常にうれしかったのですが、特に強調したいところは「私の思考や興味は解説(作品の外/具体性)として書かれるよりも、1部冒頭のように、テキスト自体が作品(作品の中/抽象性)に取り入れられる方が向いている」という箇所。これはいくつか思い当たるところがあって、おそらく5年くらい前までは、自分はかなり「音楽」を対象、もっというならば擬人化して、それとどう相対するかを考えていた部分が多かったと思います。そしてあまりにも「相対する」という欲望が強いこともあり、書いてある解説と実際の演奏に乖離が生まれていたようにも思います。それは「音楽は自分の前に現れるものである」という意識(ある意味では強迫観念)、またその現れとどのように向き合うのかと考えること、つまり「私」と「私の音楽」を別のものとして捉えるというある意味ではかなり矛盾したことに執着していました(当たり前のことですが、音楽とその主体となる演奏者の私を安易に切り離すことはできません。しかし私は所謂「音楽」に対する様々な感情からそれを相対化し、距離をもったものとして捉えたいという欲望がありました。そしてその欲望のもとでおそらく沢山の失敗をしました)。


ただその執着が演奏を続けたり、様々な表現や思想に触れることによって少し変わってきたということがこの1部には表れているようにも思います。1部では確かに解説が楽曲の中に組み込まれており、またそれがその音楽を説明するというよりは、解説をしながらもまたその音楽の中に取り込まれているというような感じで、私と音楽の関係性に以前のような明確な「斜線・区切り」が薄くなった感じはしています。そしてその方が向いているという指摘は今後の創作においても重要な視点だと感じています。プロフィールにも書いてますが、「音や音楽の周りでどのように自身が存在するか」ということは今後も大きなテーマであり、ここの議論にもあるように、作品/曲のどの場所に自分がいるかということも勿論関係してきます。私が今後もまだもう少し自分の自作自演で音楽を続けたいという思いはこのようなところからきているようにも思います。


(音楽に取り込まれまいとする向きは私の特徴の一つでもあるので、その音楽と私の距離感ということは今後も考えを深めていくテーマだと思います)


(それと「私」と「私の音楽」を別のものとして捉えるということは、自身が他の芸術ジャンルと多くの関わりをもっていることとも関係しています。個人的には活動が段々とそのジャンル分けが意味をなさない感じになってきていますが、時間という概念以外で音に影響を及ぼす空間や行為について考えていく上で、演劇や美術、或いはテキストや哲学ということはまた音/音楽との距離を感じる上で重要なものに日々なってきています)


・とある録音について(子供靴の音情報について):

前述したサウスホールでの録音/再生について、誰も気に留めていないことかと思いますが、ひとつ心に残っていることを書いておきます。1部で再生されたサウスホールでの録音において、子供靴の音(小さな子供が履く靴で、歩くとピッピッと音がなる)が含まれていました。これを録音しようといったのは荒木さんだったか自分だったか忘れてしまいましたが(確か荒木さんだったかと)、この音を選んだことを今一度考えています。


子供靴の音というのは、結構多くの人がそれが子供靴である、もっというならばそこに子供がいるという状況をイメージすることができると思います。

(あとバカなことをいうと子供靴のピッピッいう擬音語はなんとなく鳥を想起させるものでもあります)


先ほど説明した「音脈分凝」という現象において、私は馬の足音の話をし、その際、馬の足音はAとBの二つの音から成るということを言いました(馬の足音をオノマトペすると「パッカパッカ」。つまりパとカの2つの音になります。そしてパとカの間の小さいツが音響的にパワーの薄い促音と言われるものです)。そしてこのAとBの音の差異/差分量によって、私たちはそれを馬の足音として聴けたり聴けなかったりします(馬の足音という一つの音現象としてABの2つの音を統合できるか、或いは複数の音脈が別々に鳴っていると認識してしまうかという境界がABの差異に応じて各個人の知覚の中でその都度決められます)。


そしてその観点からふと考えると、子供靴というのはピッピッという「一つの音(一種類の音)」から成っているように思います。ピッピッ、ピッピッと同じ音が続きながら、それが足音として認識されてしまうこと。それは単に私たちがその靴の音に慣れてしまっただけなのかもしれませんが、ここに「足音」を見出すということはなんだか少し不思議なことにも思いました。同じ音の連続が足音として私たちの中に立ち現れること。それは少し不思議なことのように私は思いました。


また同時に上とは逆の側面として、音だけになった子供靴はその「足音」の文脈から切り離されてしまうことも可能だったのではないかと思います(楽曲の中ではその音は子供靴ではなく、ただの音だったかもしれない)。同じ音が意味(子供の足音)を持ったり、或いは視覚を奪われ意味が宙吊りになること。以外にも公演タイトルである「アウト、セーフ、フレーム」に響きあう部分があるように思いました(ほとんど私の妄想ですが…)。


※子供靴の録音風景(この写真をみたあとの子供靴の音を聴くとまた意味が変わってきますね・・・)



ということで1部について考えていたことの一端をここに書いておきます。ほとんどこれまでの作曲、演奏活動の自伝的な様相を呈してきましたが、これらの言葉/思考と関係をもったり持たなかったりしながら、音楽は生まれてきます。そしてまたそれも良いことです。そんなことを言いながら、次回は2部、3部と続けていきたいと思います。「、バンド(集団)」と「壊れた楽器の自動演奏」について。


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